オーストラリアのフレミントン競馬場で行われたマッキノンステークスGⅠ芝2000m。
クルーガーは前に。前にいこうとした馬の中では最も内にいたのですが,やや控えて4番手の内という位置取り。スズカデヴィアスは控えて最後尾からの追走に。クルーガーは少し外目に出しましたが直線はあまり伸び脚がなく勝ち馬から5馬身半弱の差で8着。スズカデヴィアスは外から追い込んではきたものの勝ち馬から5馬身差の7着という結果でした。
2頭とも日本での近況ではGⅠでは苦しいという評価。オーストラリアの馬場が合えばということで,現にクルーガーは春は健闘していたわけですが,そういった外的条件を抜きにすれば,これくらいの着順と着差というのは,能力通りだったと考えていいのではないでしょうか。
『スピノザ 力の存在論と生の哲学』で指摘されている『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の矛盾は,確かにその通りであると僕は考えます。よって僕も秋保と同様に,『知性改善論』には矛盾が含まれていると考えます。それをどのように修正するべきなのかということは,秋保が著書で示しているのと同様に僕は解します。しかしその修正案を示す前に,スピノザはこの矛盾について弁明する余地が残されていると思いますので,そちらを先に説明していきます。
スピノザは『知性改善論』の七八節で,精神mensのうちにひとつの観念ideaしかないのであれば,それが真verumであるか偽であるかとは関係なく,疑惑dubitatioもなければ確実性certitudoもないといっています。よってこれを確実性に関する言及とみれば,確実性と真の観念idea veraを等置することはできないということになります。明らかにスピノザの文言はそのように読解することができますから,僕はそれがその前の三五節および七四節とは矛盾していると解するのです。
しかしスピノザがそこでいいたかったことの主旨は,確実性についての言及ではないのです。むしろそれは疑惑についての言及なのであって,このいい回しが出てくる文脈からしてスピノザがここでいいたかったことは,もしひとつの観念だけがある人間の精神mens humanaのうちにあるのであれば,それがたとえ誤った観念idea falsaであったとしても,その人間はそれについて疑惑を有することはないということなのであって,それが真の観念であったとしてもそれについて確実性を有することはできないということではないのです。つまり文脈全体としていえばスピノザがここでいっているのは,ある人間が何事かについてその確実性を有するためにはその真の観念がその人間の精神のうちにあるだけでは十分ではないということではないのであって,ある人間が何事かについて疑惑を有するためには,その誤った観念がその人間の精神のうちにあるだけでは十分ではなく,ほかにも何らかの観念があるのでなければならないということなのです。
したがってこの部分の文脈全体の主旨は,ある人間が疑惑をもたないということと,その人間がそのことについて確実であるということは異なることであるということです。
クルーガーは前に。前にいこうとした馬の中では最も内にいたのですが,やや控えて4番手の内という位置取り。スズカデヴィアスは控えて最後尾からの追走に。クルーガーは少し外目に出しましたが直線はあまり伸び脚がなく勝ち馬から5馬身半弱の差で8着。スズカデヴィアスは外から追い込んではきたものの勝ち馬から5馬身差の7着という結果でした。
2頭とも日本での近況ではGⅠでは苦しいという評価。オーストラリアの馬場が合えばということで,現にクルーガーは春は健闘していたわけですが,そういった外的条件を抜きにすれば,これくらいの着順と着差というのは,能力通りだったと考えていいのではないでしょうか。
『スピノザ 力の存在論と生の哲学』で指摘されている『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の矛盾は,確かにその通りであると僕は考えます。よって僕も秋保と同様に,『知性改善論』には矛盾が含まれていると考えます。それをどのように修正するべきなのかということは,秋保が著書で示しているのと同様に僕は解します。しかしその修正案を示す前に,スピノザはこの矛盾について弁明する余地が残されていると思いますので,そちらを先に説明していきます。
スピノザは『知性改善論』の七八節で,精神mensのうちにひとつの観念ideaしかないのであれば,それが真verumであるか偽であるかとは関係なく,疑惑dubitatioもなければ確実性certitudoもないといっています。よってこれを確実性に関する言及とみれば,確実性と真の観念idea veraを等置することはできないということになります。明らかにスピノザの文言はそのように読解することができますから,僕はそれがその前の三五節および七四節とは矛盾していると解するのです。
しかしスピノザがそこでいいたかったことの主旨は,確実性についての言及ではないのです。むしろそれは疑惑についての言及なのであって,このいい回しが出てくる文脈からしてスピノザがここでいいたかったことは,もしひとつの観念だけがある人間の精神mens humanaのうちにあるのであれば,それがたとえ誤った観念idea falsaであったとしても,その人間はそれについて疑惑を有することはないということなのであって,それが真の観念であったとしてもそれについて確実性を有することはできないということではないのです。つまり文脈全体としていえばスピノザがここでいっているのは,ある人間が何事かについてその確実性を有するためにはその真の観念がその人間の精神のうちにあるだけでは十分ではないということではないのであって,ある人間が何事かについて疑惑を有するためには,その誤った観念がその人間の精神のうちにあるだけでは十分ではなく,ほかにも何らかの観念があるのでなければならないということなのです。
したがってこの部分の文脈全体の主旨は,ある人間が疑惑をもたないということと,その人間がそのことについて確実であるということは異なることであるということです。