21日と22日に湯村温泉で指された第32期竜王戦七番勝負第四局。
広瀬章人竜王の先手で相矢倉。豊島将之名人が途中で受け間違えてしまう将棋でした。
先手が攻防に利いている後手の飛車先を叩いたところ。攻めに利かすなら☖同飛で受けに利かすなら横に逃げるのですが,☖9二飛と横に逃げて後者を選択しました。こういうときはなるべく遠くに逃げるというのがセオリーのひとつですが,この場合は特異なパターンで,☖8二飛と逃げなければいけませんでした。
☗3五歩☖7四香☗3四歩と攻め合いに。後手は☖5一角と逃げましたが☗8五銀と取られ☖同歩に☗3三桂と打たれました。
このときに後手の飛車が8二にいると,後手玉への詰めろが途切れたときの後手からの反撃が厳しいため,先手はこの順は選べませんでした。第2図は後手からの反撃が迫力不足だったため,先手の勝ちになっています。
広瀬竜王が勝って1勝3敗。第五局は来月6日と7日です。
『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の矛盾そのものに関する考察はこれで終了です。しかしここではその関連事項として,次のこともいっておきます。
スピノザの哲学における確実性certitudoの考え方は,単にスピノザの哲学において意味があるというよりは,哲学史という観点からも意味があるのです。というのは,確実性を真の観念idea veraに依拠させるなら,方法論的懐疑という思考方法を排除あるいは否定することができるからです。スピノザが確実性に関して自身の主張を展開するとき,おそらく念頭にはそのことがあったと解するのが適切だと僕は考えます。別のいい方をすれば,スピノザは確実性についての自説を主張するときには,デカルトRené Descartesのことを批判する意図をかなり多く有していたと考えるのが適切だと僕は思うのです。
デカルトは,確実な認識に至るために,絶対に疑い得ないような認識cognitioを求め,そのためにすでに認識していたことのすべてを吟味することから始めました。これはいい換えれば,デカルトは誤った観念idea falsaだけを疑ったのではなく,真の観念についても疑ったのだということになります。そうしてデカルトが最終的に確実であり決して疑うことができないと解したのは,そのように疑っている自分がいるということ,他面からいえばそのように疑っている自分の精神mensがあるということでした。これが有名な「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という結論の発生です。そしてデカルトは,自分すなわち人間の精神mens humanaのうちに確実な思惟Cogitatioがあるということは,神Deusが思惟するものであるということに依拠すると考え,すべて真verumなるものは神の認識によって保証されるという方向に進んでいったのです。つまり,疑っている自分がいるということは,確かに確実な結論ではあったとしても,それはそれ自体でその真理性を保証するものではなく,神の存在によってその真理性が担保されるのでなければならないと結論したのです。
スピノザの確実性に関する主張が,方法論的懐疑を無効にするということはそれ自体で明らかだと思います。なぜならデカルトがしていることは,真の観念をも疑うことですが,第二部定理四三がいっているのはそのようなことは不可能なことであるということだからです。
広瀬章人竜王の先手で相矢倉。豊島将之名人が途中で受け間違えてしまう将棋でした。
先手が攻防に利いている後手の飛車先を叩いたところ。攻めに利かすなら☖同飛で受けに利かすなら横に逃げるのですが,☖9二飛と横に逃げて後者を選択しました。こういうときはなるべく遠くに逃げるというのがセオリーのひとつですが,この場合は特異なパターンで,☖8二飛と逃げなければいけませんでした。
☗3五歩☖7四香☗3四歩と攻め合いに。後手は☖5一角と逃げましたが☗8五銀と取られ☖同歩に☗3三桂と打たれました。
このときに後手の飛車が8二にいると,後手玉への詰めろが途切れたときの後手からの反撃が厳しいため,先手はこの順は選べませんでした。第2図は後手からの反撃が迫力不足だったため,先手の勝ちになっています。
広瀬竜王が勝って1勝3敗。第五局は来月6日と7日です。
『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の矛盾そのものに関する考察はこれで終了です。しかしここではその関連事項として,次のこともいっておきます。
スピノザの哲学における確実性certitudoの考え方は,単にスピノザの哲学において意味があるというよりは,哲学史という観点からも意味があるのです。というのは,確実性を真の観念idea veraに依拠させるなら,方法論的懐疑という思考方法を排除あるいは否定することができるからです。スピノザが確実性に関して自身の主張を展開するとき,おそらく念頭にはそのことがあったと解するのが適切だと僕は考えます。別のいい方をすれば,スピノザは確実性についての自説を主張するときには,デカルトRené Descartesのことを批判する意図をかなり多く有していたと考えるのが適切だと僕は思うのです。
デカルトは,確実な認識に至るために,絶対に疑い得ないような認識cognitioを求め,そのためにすでに認識していたことのすべてを吟味することから始めました。これはいい換えれば,デカルトは誤った観念idea falsaだけを疑ったのではなく,真の観念についても疑ったのだということになります。そうしてデカルトが最終的に確実であり決して疑うことができないと解したのは,そのように疑っている自分がいるということ,他面からいえばそのように疑っている自分の精神mensがあるということでした。これが有名な「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」という結論の発生です。そしてデカルトは,自分すなわち人間の精神mens humanaのうちに確実な思惟Cogitatioがあるということは,神Deusが思惟するものであるということに依拠すると考え,すべて真verumなるものは神の認識によって保証されるという方向に進んでいったのです。つまり,疑っている自分がいるということは,確かに確実な結論ではあったとしても,それはそれ自体でその真理性を保証するものではなく,神の存在によってその真理性が担保されるのでなければならないと結論したのです。
スピノザの確実性に関する主張が,方法論的懐疑を無効にするということはそれ自体で明らかだと思います。なぜならデカルトがしていることは,真の観念をも疑うことですが,第二部定理四三がいっているのはそのようなことは不可能なことであるということだからです。