スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

生まれた時から③&必要と必然

2019-05-21 18:58:32 | 歌・小説
 で1番は終りです。ここからは2番です。

                                   

     生まれた時から好かれたことがない
     冴えないあたしに聞かせた 浴びるような恋の歌


 では,「あんた」は産まれたときから飲んでいたように思えるという意味のことが歌われていました。それに対して「あたし」は,産まれたときから好かれたことがなかったのです。その「あたし」に「あんた」は恋の歌を浴びるほど歌って聞かせました。これはカラオケで歌ったと解することも可能ですが,僕は「あんた」はギターで弾き語ったというような感じを受けています。

     あたし嬉しかった 好かれたかと思った
     あんたは本気の時には あの娘にゃ素面だってね


 産まれたときから好かれたことがなかったのですから,恋の歌を浴びるほど歌われれば,好かれたかと勘違いして嬉しくなるのはごく自然でしょう。ですがその後に悪気なく聞かされたことのうちには,「あんた」は「あの娘」には恋の歌を素面で歌っていたということが含まれていたのです。だから②で歌われていたように,「あたし」は「あの娘」のおこぼれで夢を見ていただけだったと知ることになったのです。

 僕の疑問自体は的外れかもしれませんが,この点について結論を出すことは僕の能力では不可能なので,公理論と集合論は,必ずしも方法論的な観点から対立するものではないとしておきます。僕にはその可能性を排除することができないからです。
 ただし,仮に集合論を肯定する公理系を作成することが可能であるにしても,その公理系がスピノザの哲学の公理系と齟齬を来さないということは,上野の説明から類推する限りではあり得ないのは確かです。集合論が上野の指摘しているような理論であるとしたら,第一部定理一五備考でスピノザがいっているように,量を実体substantiaとして考えることは不可能な筈だからです。ですから『エチカ』の定義Definitioでいえば第一部定義六に類する定義を立てることは集合論ではできませんし,定理Propositioでいうなら第一部定理一五に類する定理が証明されることも集合論ではあり得ない筈です。
 上野がいっているように,スピノザが公理論を必要としたのは,数学的にいうなら無限infinitumとしての量を学問の対象としようとしていたからでした。そこでもしもスピノザが,単にそれは必要であるというだけでなく,公理論を用いれば必然的にnecessario無限としての量を学問の対象とすることが可能になると考えていたのだとしたら,集合論の体系を公理系にすることは不可能であるという結論を有することになります。僕がここでいっているのは,実際に不可能になるという意味ではなく,スピノザは不可能であると認識するcognoscereということです。ですからこの場合には,少なくとも公理論と集合論は,方法論的観点から対立することになるでしょう。いい換えれば,スピノザにとっての集合論は,分析的方法においては成立したとしても,それを綜合的方法で示すことはできない論理であるということになるでしょう。よってこの場合には,この点から集合論がスピノザにとっては数学ではないということになるでしょう。すでに示したように,スピノザにとってはもし分析的方法が数学であり得るのだとしたら,それは綜合的方法に置き換えることが可能であるという点にのみその理由があったからです。
 これはひとつの仮定で,別の場合も考えておかねばなりません。
コメント
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