日本時間で今日の未明にフランスのシャンティイ競馬場で行われたフォワ賞GⅡ芝2400m。
サトノダイヤモンドは好発。サトノノブレスは左によれるような発馬。サトノダイヤモンドがハナにいきかけましたがサトノノブレスが制して逃げ,サトノダイヤモンドが2番手に控える形。序盤はサトノノブレスが徐々に後続を離していくような展開。サトノダイヤモンド以下の5頭はほぼ集団。レース中盤から終盤にかけてサトノノブレスのリードが縮まっていき,直線に入る手前でサトノダイヤモンドが外の2番手に。この時点でサトノダイヤモンドは手応えがよさそうにみえ,外から1頭が並んできてから追い出しましたが,見た目ほどの伸び脚はなく,サトノノブレスこそ捕まえたものの外から3頭に交わされ勝ち馬から概ね3馬身半差で4着。逃げたサトノノブレスは一杯でさらに1馬身半差の最下位。
サトノノブレスはサトノダイヤモンドの帯同馬という位置付けですから,この結果もやむなし。序盤は先頭で引っ張り,自身の仕事はできたといえるでしょう。サトノダイヤモンドがみた感じの手応えほど脚を使うことができなかったのは,サトノノブレスがある程度のペースで先行したにもかかわらず,2分35秒86という極度に遅いタイムでの決着になったこと,つまりそれだけ馬場状態がタフであったことが大きく影響したのではないかと推測します。ですから本番となる凱旋門賞も,同じような馬場状態になってしまうと苦戦は免れ得ないのではないかと思われます。逆に時計が早くなるような馬場状態になれば,好走する可能性も残されているといえるでしょう。
スピノザは第四部定理五八を証明するにあたって,それは端正honestumの定義Definitioから明白であるという意味のことをいっています。ここでスピノザがいっている端正とは,理性ratioの導きに従って生活する人びとが賞賛すること,あるいはそういう行為のことです。第三部諸感情の定義三〇にあるように,名誉gloriaとは他人から賞賛される自身の行為を原因の観念ideaとして伴った喜びlaetitiaでした。したがってこの証明Demonstratioは,理性に従って生活する人びとが賞賛する行為というものが存在するのであって,そうした行為が自分の行為であることを原因の観念としてその人が喜びを感じているならば,この喜びすなわち名誉は理性と矛盾しないという意味です。
ただ,僕はこの証明の内容には若干の不満を感じないでもありません。確かに上述の事象は現実的に存在し得るのであって,したがって名誉という感情affectusが必ずしも理性とは矛盾しないということは明白であるといえるでしょう。ですがこの証明は,その喜びが喜びを感じている当人の理性から発生しているということに関しては,必ずしも証明できていないのではないかと思われるからです。
スピノザは端正というのを,理性に従って生活する人びとが賞賛するような行為のことであるとしかいっていません。したがってその行為をなす人間が,理性的にその行為をなしているかそれとも非理性的にすなわち受動的にその行為をなしているかということが問われているとはいえないのです。
スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』において,人間は理性によって敬虔pietasであることもできるし,服従obedientiaすなわち宗教的受動によっても敬虔であることができるということを認めています。そして敬虔であるような行為は,理性に従って生活する人びとが賞賛する行為であるとみていいでしょう。すると理性に従って生活する人びとは,ある人が理性によって敬虔であろうと服従によって敬虔であろうと,その行為については賞賛するのではないかと僕には思えます。このうち前者の場合は確かに名誉が理性から生じているといえるでしょうが,後者の場合には理性から生じてはいないということになります。つまり賞賛する人を規準とする点に僕は不満を感じるのです。
サトノダイヤモンドは好発。サトノノブレスは左によれるような発馬。サトノダイヤモンドがハナにいきかけましたがサトノノブレスが制して逃げ,サトノダイヤモンドが2番手に控える形。序盤はサトノノブレスが徐々に後続を離していくような展開。サトノダイヤモンド以下の5頭はほぼ集団。レース中盤から終盤にかけてサトノノブレスのリードが縮まっていき,直線に入る手前でサトノダイヤモンドが外の2番手に。この時点でサトノダイヤモンドは手応えがよさそうにみえ,外から1頭が並んできてから追い出しましたが,見た目ほどの伸び脚はなく,サトノノブレスこそ捕まえたものの外から3頭に交わされ勝ち馬から概ね3馬身半差で4着。逃げたサトノノブレスは一杯でさらに1馬身半差の最下位。
サトノノブレスはサトノダイヤモンドの帯同馬という位置付けですから,この結果もやむなし。序盤は先頭で引っ張り,自身の仕事はできたといえるでしょう。サトノダイヤモンドがみた感じの手応えほど脚を使うことができなかったのは,サトノノブレスがある程度のペースで先行したにもかかわらず,2分35秒86という極度に遅いタイムでの決着になったこと,つまりそれだけ馬場状態がタフであったことが大きく影響したのではないかと推測します。ですから本番となる凱旋門賞も,同じような馬場状態になってしまうと苦戦は免れ得ないのではないかと思われます。逆に時計が早くなるような馬場状態になれば,好走する可能性も残されているといえるでしょう。
スピノザは第四部定理五八を証明するにあたって,それは端正honestumの定義Definitioから明白であるという意味のことをいっています。ここでスピノザがいっている端正とは,理性ratioの導きに従って生活する人びとが賞賛すること,あるいはそういう行為のことです。第三部諸感情の定義三〇にあるように,名誉gloriaとは他人から賞賛される自身の行為を原因の観念ideaとして伴った喜びlaetitiaでした。したがってこの証明Demonstratioは,理性に従って生活する人びとが賞賛する行為というものが存在するのであって,そうした行為が自分の行為であることを原因の観念としてその人が喜びを感じているならば,この喜びすなわち名誉は理性と矛盾しないという意味です。
ただ,僕はこの証明の内容には若干の不満を感じないでもありません。確かに上述の事象は現実的に存在し得るのであって,したがって名誉という感情affectusが必ずしも理性とは矛盾しないということは明白であるといえるでしょう。ですがこの証明は,その喜びが喜びを感じている当人の理性から発生しているということに関しては,必ずしも証明できていないのではないかと思われるからです。
スピノザは端正というのを,理性に従って生活する人びとが賞賛するような行為のことであるとしかいっていません。したがってその行為をなす人間が,理性的にその行為をなしているかそれとも非理性的にすなわち受動的にその行為をなしているかということが問われているとはいえないのです。
スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』において,人間は理性によって敬虔pietasであることもできるし,服従obedientiaすなわち宗教的受動によっても敬虔であることができるということを認めています。そして敬虔であるような行為は,理性に従って生活する人びとが賞賛する行為であるとみていいでしょう。すると理性に従って生活する人びとは,ある人が理性によって敬虔であろうと服従によって敬虔であろうと,その行為については賞賛するのではないかと僕には思えます。このうち前者の場合は確かに名誉が理性から生じているといえるでしょうが,後者の場合には理性から生じてはいないということになります。つまり賞賛する人を規準とする点に僕は不満を感じるのです。