昨日、母のつきあいで日展の書道展と洋画に行って参りました(写真は銀座鳩居堂の『鈴木静村と十四人の書展』です)。
日展の書道展といえば、3年程前に審査の不正が大々的に報道されたことが記憶に新しく、私もそれについてトカナで記事に書いたことがありました。
ただ、あれは書道の中でも篆刻(てんこく)と呼ばれる、いわば判子の部門。
同じ部屋で展示されているものの、違う部門なんだそうです。
日展の書はレベルが高いというのは、母から再三聞かされていたものの、公募展に興味がなかったこともあって、今まで見に行ったことがありませんでした。
昨日はたまたま、時間の折り合いが良かったので、試しに見てみるかということになって見に行ったのですが、果たしてそのレベルの高さにびっくり。
書道は専門外のわたくしではありますが、多少の善し悪しはわかるつもりでいましたが、気迫のこもった書の数々に圧倒されました。
書のスタイルは様々ですが、母が若い頃師事していた流派の書や、関連の流派は昔から見ていましたので、見覚えのある筆づかいがあちこちに散見されたのは興味深いことでした。
さて、日展の書道部門。
不正報道のあとで、だいぶ組織改革やら本分の書道に精進された方も多いと聞きました。それでも、新国立美術館のブースをダリ展以外はすべて占領している日本一の公募展ですから、政治的なことがまったくなくなったはずはないでしょう。
それでも、作品自体がこれほどのレベルを保っているというのは、「書」というものが昨日今日出来たものではないことを実感させました。
さらに言えば、書は一瞬の勝負であり、やり直しのきかないアートであります。
やり直しの効かないものだからこそ、それまでの蓄積や精進、そして書が持っている歴史がそこに出るのであります。
文字は一朝一夕に出来上がったものではなく、そこに到達するための長い歴史を感じさせる展示でした。
それに比べて、洋画部門の凡庸な内容には「やはり」という感が否めませんでした。何が描きたくて、何を表現したいのかわからない、思考停止な作品ばかり並んでいた、というと言い過ぎでしょうか。
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