昨日は8月15日。
日本では終戦記念日と言い、インドでは独立記念日、韓国では光復節と呼ぶ特別な日であります。
この日をどう呼ぶかというのは、国の事情によっても違うでしょうし、同じ日本国内でもこの呼び名を当たり前と感じる人、違和感を感じる人、それぞれですが8月15日に日本が敗戦し戦争が集結した日であることは変わりありません。
昨日は日本が負けた暑い日のイメージ通りの天気で、毎年あのような天気が多い日でもあります。
毎年、この日にはTVでも新聞でも戦争に関する特集を組まれるわけですが、広島慰霊碑「過ちは繰り返しませぬから」と同じ違和感を感じぜずにはいられません。
無謀な戦争をはじめ国民を巻き込んだ国家の責任は当然のことながら、広島長崎の原爆投下や東京大空襲などの民間人の殺戮まで、自分たちが戦争をはじめたからという論法になるのは如何なものか。
わが国とは戦争もしていない大韓民国や中華人民共和国が、あれだけ戦争責任をしつこく追求してくるのに比べ、戦争に負けたわが国の戦争責任の広がりは、戦後70年近く経過してるのにも関わらず、ややこしくこじれたままとなっています。
戦争には勝者と敗者があります。
敗者がそれなりの代償を払うのが戦争のルールでありますが、よく言われるように戦争に良いも悪いもありませんし、勝者が正しい、敗者が悪いということもありません。ただ、敗者が悪かったことになるのも戦争というものであり、肝心なのはこの点にあります。
勝者は「原爆投下は戦争を終わらせるのに必要だった」と公然と言えますが、民間人30万人殺戮することを、彼らの神イエス・キリストが良しとするわけはありません(ヤーヴェなら言うかな?)
必要なのは「どんなことがあっても戦争をしてはいけない」という、思考停止の考えではありません。
「どんなことがあっても戦争をしてはいけない」のはたしかにそうなんですが、残念ながらいくらそれを叫んでも戦争が起る時には止めることはできないのは、今起っているウクライナとロシア、イスラエルとハマスの戦いを見ればわかることでしょう。
(日本人は性格も環境も豊かさも彼らとは違いますから、たまたま戦争は起きていないだけのこと。別に憲法9条のおかげではありません)。
必要なことは、どうすれば戦争が起らずに済むか。戦争が起るのはどうしてか、ということを学ぶことではないでしょうか。
それを言うと、戦争を肯定していると攻撃してくる人たちもおりますが、学ぶこと、知ろうとすることを制限するのであれば、実は戦時中の言論統制と本質的には変わりません。
誤解を恐れず申し上げると、「どんなことがあっても戦争をしてはいけない」原理主義というのは、実は戦時中の『鬼畜米英、ロスケのスパイ』と言うのと、あまり変わらないように思えるのですが、如何でしょう。