漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

雑誌「スペクテイター」39号

2017年06月28日 | 読書録
雑誌「スペクテイター」39号 
特集:パンクマガジン『Jam』の神話

を買う。

 先日、なんとなく書店の雑誌のコーナーを見ていて、見つけた。で、早速購入した。
 実は最近、偶然にもある古書店でこの「jam」と後継誌の「heaven」を数冊ずつ売っているのを見かけて、「おお、『jam』だ!」と感動したことがあった(同名の音楽雑誌ではない)。自動販売機販売専門のエロ雑誌という位置づけだから、あまり見かけたことがなかったので、感動したわけである。買おうかとも思ったけれど、一冊五千円ほどしたので、少し迷ったけれど、やめてしまった。で、後日行ったときには、もう売れてしまっていた。まあ、もしそのときまだ残っていたとしても、内容ははっきり言ってくだらないであろうことが分かっているだけに、買わなかったかもしれないけれども。二千円くらいなら、買ったのだが。まあ、それ以来、なんとなく気になっていたから、タイムリーだったわけである。
 『jam』は、1979年3月から約一年にわたって刊行されていた月刊誌である。販売ルートは、今ではもう見なくなった、雑誌の自動販売機のみ。書店には並ばない。雑誌の自動販売機というのは、基本的にエロ本を売るための自動販売機で、一時期は全国にたくさんあった。時代が下ると、昼間には売っている本の表紙が見えなくなるような工夫もされていた。80年前後に中学生くらいだった男子には、非常に懐かしく感じる人も多いんじゃないかと思う。
 で、この自販機本だが、実は日本のサブカルチャーの中ではかなり重要な位置を占めている。自販機本は、誰も中身を見て買わないから、とりあえず裸のグラビアなりマンガなりが多少載ってさえいれば、あとは何をしてもいいというような、無法地帯だったらしい。らしい、というのは、ぼくもリアルタイムで読んでいたわけではなかったからである。というか、ほとんど読んだことがない。たまたま手元にある自販機本は、三大エロ劇画本の一つ「劇画アリス」が一冊のみである。これには、吾妻ひでおや坂口尚なども寄稿していた。ぼくの持っている号には、近藤ようこや飯田耕一郎、宮西計三らの名前もある。ちなみに、編集長は、SF作家でもある亀和田武氏である。
 で、『jam』だが、これはそうした自販機本の中でも、最も有名なものだと言っていい。創刊号で、当時人気が絶頂期であった山口百恵の自宅のゴミ箱を漁って、捨てられていたものを晒したのみならず、それを読者にプレゼントするという、今ではちょっと考えられないことをやって、悪名を高めた。もともと、のちに『jam』の編集長になる高杉弾という人が、道端に落ちていたエロ本を拾って、その中に出ていた写真に興味を持ち、版元に電話をして、この写真を撮った人物に会いたいと話したことからすべてが始まったという。その写真を撮った人物というのが、版元の社長だったらしく、気に入られて、「雑誌の次の号、8ページやるから、なんか書かないか」と持ちかけられ、それが評判よくて、「じゃあ、次は新しい雑誌、一冊まるまる作れ」となったらしい。本造りにかけては全くの素人が、友人とともに、ともかく面白そうなことをやろうと作ったのが、この『jam』というわけである。
 この『jam』だが、ぼくは昔から名前はよく知っていたのだが、手に入れることはかなわないままだった。例えば『遊』とか『Fool's Mate』とか『Zoo』とか、そうした雑誌の古い号を手に入れると、広告が載っていて、気になってしょうがなかったのだが、もう手に入れるすべもなかった。『jam』が廃刊した後、編集長が、『ガセネタ』というバンドのリーダーであり、『タコ』という、ジャケットの絵が花輪和一が手がけた変なアルバムにも参加していた山崎春美になり、『Heaven』と名前を変えて、ついでに表紙デザインも 羽良多平吉によるアートなものになり、書店でも売れるようになっていたが、それも読めないでいた。まあ、『Fool's Mate』に、雑誌内雑誌として、『Heaven』のコーナーを持っていた時期があって、それは当時読んでいたけれども。
 ともかく、それが『jam』である。胡散臭いという言葉がぴったりの、唯一無二の雑誌だが、まあ時代の徒花とも言える。それがなぜいまさら特集されるのか、不思議といえば不思議なのだが、ずっと全貌を知りたかったぼくとしては、この特集は有りがたかった。『jam』と『Heaven』、もし全号揃えるとなると、十万じゃ足りないだろうから。
 雑誌というのは、「文脈を補完する」という意味に於いて、非常に重要な媒体であると思う。例えば、ラヴクラフトを語るとき「Weird Tales」が欠かせないように、また、日本のSFを語るとき、ずっと並走してきている「SFマガジン」が欠かせないように、一見バラバラに見える個々の作品の間には、実は文脈が存在することが多い。今ではネットがその地位を奪ってはいるが、かつては確かに雑誌がその場所にあった。したがって、過去のある作品を読むとき、単に楽しむだけならばただその作品を読むだけで良いのだが、歴史の中で評価しようとすると、最初に調べなければならないのは、雑誌や新聞になる。
 今回の『jam』の特集も、もしかしたら現代のネットに最も近かったかもしれない雑誌『jam』を取り上げることで、そうして雑誌が力を持っていた時代に別れを告げる「ひとつの儀式」として企画されたものなのかもしれない、と思ったり。