漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

幽霊海賊・2

2006年12月14日 | W.H.ホジスンと異界としての海
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原文はこちら。

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一、大海から現れたもの (続き)


 最初の二週間が過ぎても、おかしなことなんか何も起きなかった。風も順調なままだったしな。すごく嫌だった船が、まったくのところ、こいつに乗れてついてたんじゃないか、とさえ思えてきた。他の奴らもいい噂を立てるようになって、この船が呪われてるなんてのは、ばかげたたわごとだってのがそいつらの統一見解ってことになってた。だが、ようやく気分も落ち着いてきた頃になって、目の玉をひん剥くようなことが起こったんだ。
 八時から十二時の当直のときのことだ、俺は右舷の船首楼甲板へ上がる梯子に座っていた。あの夜は満月で、すごくいい天気だったな。船尾の方で計時係が四点鐘を打ち、見張りについてたジャスケットっていう老水夫がそれに答えた。鐘を打つときに、俺が静かにパイプをくゆらしている姿が見えたんだろう。あいつは手摺りから身を乗り出し、俺の方を見下ろして、言った。
  「そこにおんのはジェソップかな」
  「そのようだな」俺は答えた。      
  「いっつもこげえ天気が良かったら、うちの婆さんでん娘っ子でん海に連れ出せるんじゃけどな」なんていって、パイプを持った手を一振りして穏やかな海と澄みきった空を指した。その意見に文句はなかったよ。老水夫は続けた。
  「もし、みんながいうごと、このぼろ船が取り憑かれっちょるちゅうんだったら、そげなもんに会ってみてえもんじゃな。考えちみない、いい飯、日曜日の堅プディング、船尾楼にはふさわしい奴ら、それに、心地よう思えること全部、そうすりゃ御自分がどこにおるのかわかりなさるじゃろうよ。この娘が呪われちゅうなんざ、くだらねえ戯事さな。今まで呪われちょるちゅう船にゃ何度も乗ってきたがよ、そこの奴らは憑かれちょったな、けどよ、幽霊なんぞたぁ御対面できなんだな。前に乗ったある船なんざ、非直になっても一睡もできんごとひどかったぜ。服もシーツも全部、寝棚からおっぽり出して、いつもの狩りば済まさんとな。時々・・・」  そのとき、オーディナリーのひとりが交替に、船首楼へ続く別の梯子を登ってきた。老水夫は振り返るとそいつに『いったい何で』もうちっと早く交替できんかの、といって、それにオーディナリーが何か答えたが俺の耳には入らなかった。寝ぼけ眼ではあったが、船尾のほうに何かとんでもないものがいるのが目が留まったんだ。そいつは人の形をしていて、右舷メインリギングの少し船尾寄りの手摺りを乗り越えて来たとしか見えなかった。俺は立ち上がり、手摺りを掴んで、じっと目を凝らした。
 後ろで誰かが口を開いた。そいつは二等航海士に交替した奴の名前を報告するため、船首楼甲板を下りてきた見張りだった。
 「相棒よ、ありゃ何だい」男は俺の真剣な様子を見て、興味深げに尋ねた。
 何だったにせよ、そいつはデッキの風下側の闇の中へと消えてしまっていた。
 俺はただ「なんでもない」と、そっけなく答えた。というのも、たった今見た物にあんまりびっくりしていて、他の言葉を思い付かなかったからだ。ちょっと考える時間が欲しかった。
 老水夫が俺を一瞥したが、何かぼそぼそと呟いただけで、船尾に行ってしまった。
 たぶん一分間も、そこに突っ立って見つめてたんだろう。でも何も見えなかった。それからゆっくりと船尾の方へ甲板室の後ろまで歩いていった。そこからならメイン・デッキの大部分が見渡せるんだが、何もなかった。当然ながら、月光に照らされて揺れ動く索具とか円材とか帆の影は別だがね。
 見張りを交替したばかりの老水夫が前に戻っていったんで、デッキのその辺には俺一人きりになってしまった。立ったまま風下側の闇の中に目をやったとたん、ふと、ウィリアムスが〈かんげ〉がたくさんあるんだ、といってたことを思い出した。それまであいつの言葉の真意がわからなくてさ。でも、そのときはっきりとわかったよ。そこにはたくさんの影があったんだからな。
 まあ、影があろうがなかろうが心の平静のためにも、こいつばかりははっきりさせとかなきゃならないって気が付いたんだ。あの海から乗り込んできたように見えた奴が本当にいるのか、それとも、たぶんあんたたちが考えてるように、単に俺の想像力が生んだ幻なのかさ。俺の理性は、そんなもの幻以外にありえないじゃないかと言う。ほんの一瞬、夢でも見ていたのさ・・・きっと俺はウトウトしてたんだと。でもさ、理性なんかよりももっと深いものが言うんだ、そんなもんじゃないってね。それで、試してみることにした。まっすぐ影の中に踏み込んでいった・・・でも、そこには何もいなかった。
 どんどん大胆になっていった。常識的に考えて、俺は幻を見ていただけに違いないんだ。俺はメイン・マストまで歩いていって、それをコの字に囲っているピンレールの後ろを覗いてみた。揚水器の闇も覗いてみた。そこにも何もいなかった。そして船尾楼のブレークの下に行ってみた。そこはデッキよりももっと暗かったな。デッキの両側を見上げたが、すぐに探しているようなものは何もないと思った。この確信ははっきりしてきた。船尾楼の梯子をちらと目をやって、どんなものもそこは登ってなんかいけやしないことを思い出したのさ。行けばきっと二等航海士か計時係が見るはずだからな。俺は隔壁にもたれ、デッキから目を離さずにパイプをふかしながら、それまで起こったこと全てに、素早く考えを巡らせた。それで、自分なりの結論を出した。「気のせいだ!」俺は大きな声で呟いた。だが、その時ふと思い浮かんだことがあって 「いや、待てよ……」と続けた。俺は右舷の舷檣から海を覗き込んだが、海面の他には何も見えなかった。それで、俺は踵を返し、船首へと歩いていった。常識の勝ちだな。どうやら俺は自分の空想に一杯食わされたらしい。そう確信してたよ。
 船首楼に通じる左舷のドアまで行き着いて、中に入ろうとしたんだが、何かが振り返らせたんだ。そうしたらどうだ、身震いしたよ。船尾の方にぼんやりとした影のような物が、メイン・マストの少し後ろ、デッキを掃いてゆく月の光の軌跡の中に立っていたんだからな。

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