漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

「国立メディア芸術総合センター(仮称)」

2009年09月30日 | 漫画のはなし

 政権が民主党に移ってしばらく経つが、鳩山首相はなかなか精力的に動いているように見える。どれだけのことが出来るのかはまだ分からないが、少しでも良い方向へ向かうように頑張って欲しいと思う。
 ただ、今朝のニュースで、予算案の見直しの流れの中で改めて「アニメの殿堂」の建設中止ということが大きく取り上げられていてるのを見て、これはかなり残念だと思った。しかも、なぜ「国立メディア芸術総合センター(仮称)」と言わないで、「アニメの殿堂」なんて言い方をするのだろう。別にアニメに偏った施設にするわけでもないだろうに、これは言い方が変だ。僕は、これはぜひ実現すべきだと思う。コレクションを持たず、従って重要な美術品の保存にも全く貢献しない「国立新美術館」なんてものを作るくらいなら、こちらの方がどれだけ意味があるか知れない。新しいハコを作るカネがないなら、いっそ今の国立新美術館を国立メディア芸術総合センターに変えてしまったらどうか。あるいは、都内の閉鎖した学校を使うとか。色々と考えようはあるだろう。別に無理に新しいハコを作る必要はなく、要するにこれまでないがしろにされていたメディア、サブカルチャーを保存、収集、評価する場所があればいいのだから。
 いろいろと調べていても、サブカルチャーに関する資料を集めるのは本当に大変で、とても一人の力できるものではないといつも無力感に襲われる。さらには、こうしたサブカルチャーはずっと今に至るまで不当なほど軽く扱われすぎていたから(昔は、平気でマンガの原稿を一コマずつ切り取って、読者プレゼントにしていたりした)、散逸の度合いも半端ではなく、一部の個人の収集家の努力によってかろうじてある程度保存されているといった有様のようだ。こうした個人の収集家も、これは想像だけれど、自分のコレクションを見ながら、「こうして集めたけれど、大抵の人には多分ゴミにしか映らないんだろうな。もし自分が死んだら、これはどうなってしまうのだろう」と感じているのではないかと思う。昔の雑誌などは、下手をすれば「この一冊がなくなれば、この世からこの本は一冊もなくなってしまう」という状況すれすれにあるはずだ。こうしたものが間違って捨てられてしまうことは、とても残念だ。ついでに言うと、こうしたサブカルチャーは、同時代の人間にしか本当には理解できないのだから、そうした同時代の人間が生きているうちに、ちゃんと時代的な位置づけを確立させておくべきだ。何と言っても、サブカルチャーは多岐に渡りすぎていて、迷宮のようで、案内人がいないことには悪戯に迷うだけだ。こうした作業は、中枢となる施設があるほうが、絶対に上手くはかどるはずだ。個人の収集家にしても、自分のコレクションに行き場があると思うと、随分気が楽になるんじゃないか。これは、先日訪れた弥生美術館のSF画の展覧会でつくづく感じたことだ。
 念のために書くと、僕はアニメは殆ど観ない。正直言って、余り好きでもない。でも、こうして花開いている以上、意味はあると思う。最近、中野のブロードウェイに行くことがあったけれども、外国人の余りの多さに驚いた。これだけ海外から注目されているメディアを(あるいは一部の人だけかもしれないが)、放置しておいていいとは思えない。勿体無い。ここから何かが生まれることはあるだろう。そう思う。それに、アニメといっても、いろいろあることくらいは、わかるはずだ。僕は子供の頃にNHKの「みんなのうた」が大好きだったが、あれもアニメの力が大きかった。アニメはつまり「動く絵」であり、秋葉系、萌え文化というのはその一形態にすぎず、可能性は無限に秘めていると思う。普通の映画の俳優は「セレブ」なんて言い方をされて、もてはやされるのに、同じ映像メディアであるアニメとなると、とたんに軽く扱われるのは、おかしな話だ。こちらのほうが、多分「アート」に近いはずなのに。実際に原画を見ると、その繊細さに驚くはずだ。
 「国立マンガ喫茶」なんて言い方もあるようだが、これはさらに変だ。こんなもの、いくらでもクリアできる問題ではないか?別にマンガを開架する必要はないし、図書館的な機能を持たせるにしても、一度に数冊までと決めて、申し込むことによってのみ読めるようにすればいいわけだし、成人向けのものは年齢を証明する身分証を必要とすればいいだけだ。飲食、喫煙ができるわけでもなし、マンガ喫茶になどなりようがない。基本的には「メディア」に絞った博物館、もしくは美術館を作ろうとしているのだろうから。
 サブカルチャーは、言い方は悪いが、ある意味で確かに「ゴミの山」かもしれない。それは確かにそう思う。だが、一般にカルチャーと呼ばれるものは、そうしたサブカルチャーというゴミの山の中から、滋養を得て、生まれてくる花のようなものだ。江戸時代の浮世絵だって、言葉どおり、もともと単なる風俗画だ。それがフランスの美術界に影響を与えたりした。だから、上澄みだけを観ているだけでは、その奥にある深みは見えてこないだろう。この辺りで、一度ちゃんとそうした「堆肥の山」にスポットライトを当ててみてもいいのではないかと思う。いや、この機会を逃すと、鬼籍に入るクリエイターもどんどん増えるだろうし、どんどん難しくなるだろう。他のもっと無駄に思える予算案を問題にせず、これだけを無駄遣いの代表として「潰そう」という意図が見えると、例えば、サブカルチャーのクリエイターの地位が上がることによって安く使えなくなるということを恐れている勢力でもあるのかなとか、いろいろと余計なことを勘ぐりたくもなるではないか。