漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

七枚綴りの絵/六枚目の絵/土手での邂逅・6

2006年11月07日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 一年が過ぎました。
 わたしは機関助士として、毎日汗を流して働き、日々はあっという間に過ぎてゆきました。最初の頃は、覚えることも多くて、とても余裕などなく、失敗しないように気を張り詰めて、懸命に作業をこなすだけで精一杯でしたが、その頃になると、多少は仕事の緩急もつけられるようになっていました。機関車が自分の身体の一部のようにとまでは行かないにせよ、ある程度皮膚感覚で、機関車を感じられるようになっていたのです。そうなると、機関士との連携も上手くゆくようになり、怒鳴られることも殆どなくなりました。
 いえ、先ほどは「怒鳴られる」と言いましたが、実際のところ、先輩の機関士の方々からは、随分可愛がって頂いたのです。その頃の機関車に関わっていた人々は、みんな、結局は機関車が好きでたまらない人ばかりだったので、ですから、互いに気持ちが容易く通じたのだと思います。
 ─お前は熱心だから、すぐに機関士になれるよ。
 仕事が終わった後、時々先輩たちに誘われて、連れて行ってもらった小さな酒場で、そんな風に言ってもらえたことが、とても嬉しかったことを、昨日のように思い出すことができます。
 男の子は、暇さえあれば駅に来て、汽車を眺めていました。けれども、機関車と一緒に、わたしの姿も探していたようです。それほど頻繁に顔を合わすということはありませんでしたが、たまに互いの姿を見つけたりすると、手を振り合ったりしたものです。そんなときの男の子は、とても嬉しそうで、時々、わたしはまるで自分が男の子の父親にでもなったかのような気持ちになりました。
 実際、わたしは次第に男の子を引き取って育ててもいいという気持ちにさえなっていました。もちろんそれは、例えばわたしが結婚していてどうしても子供が出来ないという状況であればともかく、わたしはまだ独身でしたし、それが現実的ではないということは分かっていました。けれども、この先もし状況が許すなら、それもいいかもしれないと本気で考えていたのです。
 一年の間に、わたしはもう一度だけ、男の子を汽車に乗せてあげました。
 秋の、黄金色の太陽の光が、空気の中に満ちていた日に。
 それは、男の子の誕生日─その誕生日は、男の子が自分で勝手に決めた日ではありましたが─を祝っての、わたしからのささやかな贈り物でした。
 贈り物は、もう一つありました。小さな、黒いショルダーバックです。何分、彼は身体が弱いため、薬やタオルを常に持ち歩けるようにと考えたのです。わたしがそれを男の子に渡すと、こちらが恥ずかしくなるほどに喜んでくれました。
 稲穂が風に揺れている風景の中を走ってゆく列車の中で、肩に襷にバックをかけた男の子は、時々その鞄を手で撫でながら、わたしに、大きくなったら日本中を旅したいとその夢を語ってくれました。
 日本中を旅して回るんじゃ、列車の機関士になんてなれないぜ。わたしがそう言うと、男の子は、まず旅をして、それから機関士になればいいじゃないかと言いました。
 でもそれじゃ、切符代が大変だ。わたしがそう言うと、男の子は少し考えて、それじゃ最初に機関士になって、年をとって仕事をやめたあとに旅することにしようかなあと言いました。わたしは笑って、もしそうするなら、その頃にはわたしもとっくに仕事をやめているから、一緒に旅しようと言いました。
 男の子は、いいよ、と答えました。
 柔らかい陽射しが、辺り一面に降り注いでいて、眠くなるような午後でした。
 わたしは言いました。眠くなってくるね。
 ならないよ。男の子は言います。だって、こんなに楽しいんだもの。
 そうだね。わたしは言いました。その時、わたしはちょっと男の子を羨ましがらせたいという気になりました。
 わたしは言いました。確かに、午後の汽車は気持ちいいけど、夜の走行も素敵なんだよ。
 夜の?男の子は、はっとした顔でこちらを見ます。
 そうだよ。わたしは続けました。静かで、星が一面に煌いている闇の中を、冷たい音を響かせて、闇を切り裂くようにして進んで行くのは、少し寂しい気もするけれど、とてもよい気持ちなんだ。あとは、夜明けの少し前の時間、静かに空が色を取り戻して行く時、それも素敵だよ。全てが生まれ変わって行くような気持ちになるんだ。