つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

2013-06-15 | Weblog
訶=しかる。

間違っていれば、それは違うと呵られて、
このようにあるべきだと訓えられ、
阿られて生きていられるものである。
それは、阿が宇宙であり、エネルギーそのものであるために、
阿にそっての正しい存在となるためである。
阿にそぐわなければ弾かれ、存在とならなくなる。
それは、歯車がうまくかみ合わないようなもので、互いに削りあって、
小さなほうが壊れてしまうようなものである。

阿は法則であり、それによって作られているのが諸々である。私たちである。
だから、阿が大でありすべてである。阿にそぐわなければ摩擦となって、小さな私たちは潰され壊れてしまうのが道理である。
弾かれるまでの間の摩擦の状態が苦という刺激。
阿吽の呼吸といわれるように、法則によって作られているものであるために、本来何も教えられなくとも
本能として法則に沿うようになっているのだが、自由であるための‘何でもある’という間違いがある。
性善と性悪は無記であり自由である。ただ、無記であるために絶対善となっているのが法である。
それが浄化の法であり、
宇宙でありエネルギーである。故に、何もかもがゼロになり、減りもしないし増えもしないという状態にある。

よく道理を見て暮らし、訓えられなくても阿吽の呼吸となるのが人の本能である。
その質、よく澄んでいるものである。ただ、自由でもって垢が諸々ついていて、がさついて鈍くもなっている。
そのために、道理によく沿って、正しいとすることをして生きていくことが、垢が落ちていくことになる。
垢が落ちていくために身軽となって、更に見極めがついてくる。
よく研ぎ澄まされた本来の魂、煌びやかな光の放たれた鋭いエネルギーとしての存在となっていく。
わからないことが無くなっていくとなっていく。不思議な力となっていくのである。
是大神、是大明の力が宿されていくのである。具足妙相尊である。

人の行為は、すべて浄化のための行為となっているのである。
善悪がもともと無いものであるために、正しい浄化の行為としていかなければ、
善悪顚倒となって、悪だらけとなって、その間違いに気が付かなくなっていく。
同化していくためである。
それは、どのような世界であるかと言えば、たとえて、
戦争はいけないと知りながら、聖戦として悪の行為を肯定するようなことである。
戦争では、数多くの人を殺傷して尊ばれる。
悪が正義となっていく。

摩訶般若波羅蜜多心経という題名に充てられている文字は、
音写としてあてられている文字ではない。意味があって正しくつけられた題目である。

悩み苦しむ多くの一般人の心の間違いを、言葉で口でそうではないとしかりながら、みがき導いていくための訓えの詩
としての経となっている。
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