つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

我利我利亡者

2013-02-16 | Weblog
地面にゴミを捨てる。
むやみやたらに道端にゴミを捨てていく人がいる。
情けない限りの低レベルの人である。
この社会では、普通に教育も受けてきている人達であるのに、
道徳というものが欠如している。
頭の善し悪しではない、人間性に問題がある人である。
人が羨む仕事をしていても、品格がない人は沢山いる。
愚か者という人であるが、そんな人達が大勢で社会が作られているとすれば、
不条理な事ばかり起こるのもわかる。
生き辛くなる、住みづらくなる一方なはずだ。

道徳のなさというのは最も恥ずかしい。最も愚か。最悪。
このような人こそ救いの対象なのであるが、愚か者であるが故に救われる事がない。
一事が万事、気が付かないのである。
愚かな者がなす行為は、すべからくろくでもない。そんな者の周りは災難ばかりである。
それでも、救われるべき最もな対象であるために、あらゆる手が差し伸べられているのだが、
何せ、本人が気づかなければ、その手も何もつかめない。
救い上げる事ができないものである。
えてして彼らは迷惑千万撒き散らして生きている。
そんな者の行く末は見て然り、地獄のみである。仕方のないことである。
自業自得の果である。道理であるためにどうする事もできない。

どんなにお膳立てしても、対象に気がなければ手も足も出ない。
刑務所が満杯になるばかり、そして、地獄にうじゃうじゃ亡者が這いずり回る。
我利我利亡者、浅ましい限りである。
住み辛くなるばかり、世も末という。
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思い違い

2013-02-15 | Weblog
どれが正しいという方法はない。
どれが間違っているという過程もない。
因みに条件が合わさって現象となるもので、
その時々の様相である。
間違っているという過程も、
正しいとする方法も、常に思いがけない事態にある。
不結果を招いたのであれば、その過程のどこかに修正がされなかったためで、
因みに条件が重なり合っていったためである。
好結果を生んだのであれば、その方法がすべて理に合わさっていったためである。
衆縁和合の果である。
方法は過程の中にあり、因と条件に左右されたりはしないが、
経過は影響を受ける。そのために一寸先は分からない。
予測は立てられても、その通りとなるとはかぎらない。
正と負は善悪はないために、その果によってその時だけに定まるものである。
すべて元は自分の因によるもので、
因は、条件を常に引き寄せる働きをするために、
合いやすくなる。
不測の事態は、無知に由る誤りによって引き起こされ、
その誤りに気づく事がないために、修正が為されないためである。
不味い、美味いも過程は同じ。その場のその時の様相の違い、それはまた、原因の違いで違ってくる。
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損得勘定

2013-02-14 | Weblog
損得で生きてはならない。
ずるをしている人を見て、懲らしめてやろうと企ててはならない。
ずるをして得しても、ずるをした人はずるい目にあうために、
自然に懲らしめられることになる。
結局大損という人生を送るのだから。
あえて
ずるを成敗しなくても、ずるいものに成敗されるものである。
ずるい心が、ずるい人をよぶためで、
類は類を呼び、回りはずるいものばかりとなるためである。
ずるいものになるな、損得で生きればずるいものになる。
結局いい思いはできなくなるから。
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無理

2013-02-13 | Weblog
般若心経の説く無というのは、否定のための無ではなく、
肯定のための無である。
諸法無我、諸行無常は実態である。この実態が実体である。
実体は実態であるが唯、常住である。
常住であるために無くなる事がない。つまり、
無くならないものである。
無くならないというための無である。
有としてのあらゆる存在である。
私は幻で存在しているのではない。
実際にいるために実態なのであって、否定できるものではない。
それをあえて否定しては、ここにいる私は何?
いるのにいないとされては理に合わない。
理に合わないことは無理なこと。
心経は、有としてあらゆる存在の変化を教えているだけで、その変化は
無くならないものであるから、その心のあり方を説いている。
そして、
変化は進化であり、退化に転じる事はない。
時間が不可逆なように。
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金剛力

2013-02-12 | Weblog
般若心経を身に具えれば功徳がある。
生前にも死後においても。
柔軟にして金剛の如く、心身よく守られる。
臆する事がなくなる。
それは不思議な事である。

心経を身に具えるというのは、知恵である。
身口善意によって。
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徳の道

2013-02-10 | Weblog
優劣ある人の質。
姿かたちは変わらないにしても、
能力には高低がある。
それぞれの得意不得意があり、平成になっている。
どの分野に長けていても、徳の道一つに欠けていれば、
嘲られる。
優れるということが無くなる。
徳の道を歩めば、どんな達人にも対応できる。
臆する事がなくなる。
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親の背中

2013-02-09 | Weblog
父母の背中を見て育ち、親の有難さをつくづく思う。
なのに、活かして生きることなく、ふしだらしていたものだから、
親不孝者である。
今こうして親不孝を詫びて生きる気持ちを得た事は、
親の背中を見て、まともに生きられたたった一つの
従った生き方。
感謝の生き方。
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ひとりよがり

2013-02-08 | Weblog
あなたは妻を幸せにしているか?してきたか?
あなたは夫を幸せにしているか?してきたか?
一人生、この人と添えあって幸せか?でいられたか?
雨も晴れもあるのだが、日々そのように暮らしていて、
有難いことと感謝して生きているか?生きてきたか?
そのように自分に問うて、
恥ずかしくない生き方をしているか?してきたか?
恥ずかしくない生き方をしているか?してきたか?

恥ずかしく生きていて、恥ずかしく生きてきた。
幸せというのは、互いに共に思う事。
独り善がりはかなしいことだ。恥ずべき生き方。
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品性下劣

2013-02-07 | Weblog
もてなされて返礼しないのは浅ましい人。
品行に欠けていて、自他共に損なう人である。
端整であっても品位が下がる。
下劣な根性、品性下劣。ただのんべんだらりの人というのは、
付き合うに値しない。
貧富に関係なくあるも、とかく裕福な者にいる。
公務に従事するものに多い。方正という肩書きばかりで、
それに胡坐をかいて放屁する。
昔も今も変わりなく、住みづらいはずである、ますます。
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怠る

2013-02-06 | Weblog
一度読んだ文章をまた読んでみる。
数ヶ月、半年、一年・・と時を経て読み返してみると、
味のある文章は、また新たな思いを語りかける。
優れた棋士の駒を打つ一手が、何手も先を読んで打たれるように
単純にして奥深く打たれている。
一見何の意味も無いようなあり方が、宝物であったりする。
凡人は宝物を見落としたりする。だから、労を要して何度も行き来してみる。
目から鱗が落ちる。なんと真逆を思っていた事かと
浮かばれない自分を知る。
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