つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

絶対

2013-02-02 | Weblog
情けない気持ちで生きている人がいる。
情けが無い人だから、
周りに無頓着で自己中で生きている。
気分の善し悪しで周りに当り散らして、
自己の気晴らしとする。そんな人の周りは、迷惑千万
嫌な思いをさせられてしまう。なんともそんな人ばかりの世の中だから、
厭世になるのも分かる。
どんなに物事の善し悪しを教えても、分からない人がいる。
間違ってのみ込む人がいる。それだけ知性が薄いのだろうが、
謙虚で悪気が無く、ただ鈍いというのであれば、根気によって救われては行くし、また、
救われる。のみこみただしくされて、他よりも長けてもいく。
ただ心根が思わしくなければ、こと難題である。
その心根の思わしからず人は、他に迷惑多大、きわまって危害まで加えてしまう。
特に、自分は正義として生きている。だから、譲らない。
きわめて悪く凝り固まった思いの人である。反省というのが見られない。
箸にも棒にもかからない・・のが多勢。
箸の上げ下ろしまで、事細かに示されても受け入れない。
どんなによいとされることに触れても、なんら反応を示さないものは仕方が無い。

広く平等に示し申されているのが自然である。
その自然の摂理を受けて、間違えてしまうものにはどうする手立ても無い。
ただはじかれていくだけである。それが、自業自得。
禍ごとに触れてしまうのは、どこかしら非があるためで、非の打ち所がなければ遭わずに済むし、瞬時に避けられてもいく。
広く平等に示し申されているというのは、自然の慈悲の慈にあたり、対機説法つまり、
臨機応変に示されているということである。この自然の慈悲を正しく受け取ることなく、
勝手気ままをしてしまえば、慈悲の悲にあたる。
慈悲というのは、慈は喜びであり、幸いである場を示し、悲は悲しみであり、苦しみの辛い場を示している。
示し申されている慈悲の気を正しく受け取らなければ、非情になるのである。
自然は、万人に広く平等に示し申されているものである。故に、自然が神であり、
絶大なものであり絶対である。自然に触れていれば神を感じるのである。
正しく触れていれば、何事にも守られていくものとなる。それは道理であり、だから、道理に従って間違いは無い。
さて、
年老いた母と二人暮らしの人がいる。
年老いた母を困らせ、つまり、事あるごとに八つ当たりをして怒り、労わることをしない人。
自分の腹の虫のいどころが悪いというだけで、当り散らす。それで自分の気は済んでも、母は嫌な思いをする。
嫌な思いをしていれば、やがて病む。
褒めたり優しくして、慈しんで暮らしていなければ、
その家の気は沈み、なんとも陰気な家庭になる。そんな中で暮らしていれば、あちこち病んで倒れてしまう。
あれこれ面倒見てくれる母が倒れて、困るのは自分。
逆に考えて、怒られて、罵られて、叩かれていい思いを受ける人がいるだろうか。
自分がそうされてうれしく思わないはずである。
うれしく思わないでいれば、何につけて運気は上がらない。そんな単純な事に気が付かない。
物事は何でも、したことは返ってくる。自分がしたことは、善し悪しにつけ自分に返ってくる。
これは道理である。そのため、この道理を知って、
されて嫌な事はするなということが分かる。
嫌な事をすれば嫌な事が自分に返ってくる。これは、時、所、事をかまわず
必ず返ってくる。
自分が可愛いとして人は生きる。
だから、
悪いとされることはするな。自分が困る羽目になるから。
道理は絶対である。
コメント
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