つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ぎすぎすした世の中と

2024-02-17 | Weblog

困ったときの助け合い。

義援金を募る広告が頻繁にあるのは当然にあるものの、

銀行、金のある処にして、振込手数料の負担まで願う。

業務として手数料を取るのは仕方ないとしても、義援である。組織がその時、

慈悲もなく金儲け必然と強いる態様は哀しくもある。

それこそ「献」の気づかいを失ったのか?

この事に、いささかも驚くべきことではないとすることが当たり前になってしまったのだろうか?

金融支配社会は横暴になる。その洗脳はマスメディアを駆使して、慈悲の心を抹殺する。

弱者を利用してまで慾に精を出す、殺伐とした社会、世の中となってきた。

裕福というのは逆に貧しくある心となるのはなぜだろう?

世の道理が、常に相対がくっついて成すからだろうか?

貧しくある者の心が清いのは道理に基づく者だからか?凡人は常にそういう事に遭遇する。

 

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静観にして奏する

2024-02-17 | Weblog

あたかも誰の命令であるか、が明らかに推測されるようなことを賢者はしないが、

更にその裏をかいて、堂々と行う事に思慮深くあっても、浅はかな行為には賢者はいない。

憶測は過去をもってされるが、過ぎ去った事を賢者は学習し復讐はしない。

畏くも(恐れ多い事に)、賢者に「ずる」賢さは無い。動機は常に純粋にあり賢明である。

敵対するものは、陥れようと過去を探り「あたかも」を作り出す。

善悪鎬を削る処に罠がしかけられ、様々なトリックで多くを惑わす。

その時、自身に信じる力が頑なにして在れば、賢者に和む。

ただ静観にして奏する。

エネルギーの波動は緩やかにして元に戻る。善悪は無く。

 

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考えるな、感じろ

2024-02-17 | Weblog

ありのままに見て迷い、ありのままに騙される。

思慮深くして力不足は道徳、その理に無知だから。

叡智を養うという事はどういうことだろうか?

事物の在り方、物事に学び習い、道理を得る。

その経験は智恵とし身に備える。すれば誤ることは無くなる。

第六感という感覚がある。その勘の働きは直感的に当たる。

感じ取れば身体が騒めく。思考を超えて動けば、瞬時間に合う。

自身が疚しくなければ亦適う事である。

考えすぎると的は外れる。人は考えているから間違いは無いとしているが、

考えている間にも時は去っていく。只今を感じ取れ!

 

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