少し足早に春が来そうだ。
春一番は、眠りこけているわが民族の覚醒にやくだつ。
眠りを覚ませと言わんばかりの春一番は、社会の風潮を一掃する。
有識者と言われる人たちは、何をもって言われているのか、お金につられた単なる人達である。
惑わされていれば迷い道フラフラである。
大きな組織は、個々の人々に偽善をもって頼る。
災害義援金の(寄付を募りながら)手数料(送り賃)まで個々に頼る。
組織としてそこまで儲けようとする浅ましさは、偽善の何物でもない。
何でも金金金次第のぎすぎすの社会になってきた。大きなものが小さなものにおんぶにだっこ。
戦後間もないころの我が国は皆助け合いの精神豊かに、大きなものが小さなものを助けた。
助け合うところの個に負担は生じさせない社会であったが、完全に金融支配社会となって、
いけいけどんどん、
なんでも金が信用信頼につながり、あたかも金のないところは悪人の吹き溜まりとされていった。
契約書というのは金融支配社会の保険である。相手を信用できないための証拠固めに他ならない。
今の世の中、本人がいても、それを証明とする「覚え書き」がなければ本人でなくなり、認めてもらえない。
何ともおかしな社会となっている。本人(命)より大事なもの「金」・「覚書」となった過った世の中である。
さて、そんな歪な世の中、社会が正されようとしている。正されるのは必然の道理である。
「歪」とされるものは崩壊して消滅してしまう。
これが「存在」とする世の道理である。秩序正しくあるために「存在」となっているのであるから。
何度も言うが、常に明日は明るい日となっている。明日が来ない日は無かったしこれからも無い。