つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

愛情に生きること

2021-11-06 | Weblog
露骨にも分断しようとしている。
同類でありながら、明らかに対立することを目論んでいるが、
それは成り立たない。
我が身を抓って人の痛さを知る人は滅びることはない。
この世にある絶対は死である。ただ、死んでしまえば人に非ずとなるため、
死は人の経験となることはない。
経験とならないことは、知識とならないために分からない。
わからないことは恐怖となる。死が怖いのは、死が人の経験とならず、死んだ後どうなるのかわからないためである。
意識は肉体(物質)ではない。精神エネルギーである。
エネルギーはこれといって形あるものではなく、エネルギーの法則によって、なくなることのない存在である。
なぜなくなることがないかといえば、エネルギーの法則は円運動どなっているためである。
このエネルギー世界は、だから、なくなることのない存在となっている。そのために、
明日は必ずやってくる。人類が存在してから、一日たりとも明日が来なかったということはなかった。そして、これからも。
自分という肉体が死んでも、地球に明日は変わらずやってくる。自分が地上の存在でなくなっただけである。
肉体のなくなった自分はどこへ行ったのか?といえば、意識エネルギーである自分は、
意識の記憶の世界に赴く。それは、記憶の現象世界であるために、この世と少しも変わらない。
変わると言えば、記憶がどのようにされているか、正しくされていれば正しい現象の世界となっている。
悪い記憶(恐怖の記憶)であるなら、悪い現象の世界となっている。
理解しなければいけないのは、記憶の積み重ねが正しくされてきたかによって作られる世界となっているということ。
理解しなければならないのは、意識は死なないということ。エネルギーの法則を覚り、
なくならない法則であるということ。
これがわかれば、
永遠ということが恐怖となるか、喜びとなるかは自分の行いにかかってくるということがわかってくる。
法則は円運動であるために、縁起の法則でもある。繋がっていくものであり、それは浄化の法則でもある。
一日一日は、一旦ゼロ位置になり、そこから始まっていき終わり、また始まる。
そのように繋がっていき、まったく同じくして全く違った一日となっている。
それを、意識体である私達は、肉体(物質的)寿命が来るまで経験している。
私達は、これを見ていながら、経験していながら、エネルギーの法則を理解しない。
すべて栄枯盛衰の波であることに気づかないで生きている。
物質に縛られている限り、壁をすり抜けることはできない。
意識は自由であり壁などない。壁を作る(不自由な)のは意識が法則に無知なためである。
人生というのは、この法則の道理を知るということ。そのためには、道徳を学び、
心(意識)を磨き、浄化するということにある。
その唯一の方法は、愛である。
愛情豊かにあれば、死後の世界は天国である。何も心配はいらない。
しかし、他を虐めて、人でなしとして生きていたなら、死後の世界はまぎれもなく地獄である。
これは道理であるために絶対である。地獄に仏は、まだこの世の話であり、
あの世に逝ってからでは、仏はいない。それは、天国も地獄も絶対世界であるためである。
よくよく心して生きよ!

コメント
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