つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

熟慮する者

2014-11-26 | Weblog
先に生まれて様々を経験とし知識を得、智恵を持つ。
そのために、先生となる。
ただ知的とする自由の為に育まれた環境故の先見の明を持つ。
それは神通のものとしての力があり、
発達途上の身にある人の目から見れば神がかりである。

その知力により生命の記憶媒体を探り当て、
優劣の明を知る。
人の能力は希なるもので、その先見は先生を上回る。
未だ発達の途中、手に負えなくなるうちにその芽をある程度操作し、
上回ることの無いように施しておく。
その先生の自由は、歪にしてあり完成されたために、やがて崩壊にある。
宇宙というのは円満として、故に廻っているための存在である。
楕円として一方に傾きがあり、真円として修正とならなければ、それは、
やがて弾かれてしまう。その軌道から逸脱してしまう為に消えてしまう道をたどる。
つまり、上手く回らなくなるのである。それは崩壊を意味する。
それは独楽が止まるような状態である。止まってしまえば独楽としての意味を失う。
意味の為さないものは存在とはならないのである。

先生にも様々があり、善い先生悪い先生とがある。
善い先生は、その自由によって絶対となるために、何ものにも侵されることのない力を持つ。
その力によって、悪い先生を追い遣る。が、発達途上にあるものの自由を
侵すことはできないために、その者達の意思の自由によって、その力の効力が分けられる。
効力があるようにするための術は、気づきを与えるという事だけしかできない。
自由を如何なるものに於いても、変えることはできないためである。

熟慮=時間をかけて、あらゆる可能性を検討して考えること。
熟慮する=熟慮した上、機を見て実行に移すこと。

私たちは、心を戒めていなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする