人類という生命の歴史は、紛争、戦争、殺戮の歴史である。
どの国を見ても「争い」の中にあり、修羅の世界を描く。
わがくにも、時代を少し遡れば、腰に刃物をぶら下げて闊歩していた。実に危ない社会を構成していた。今では、銃刀法違反で即逮捕。時代が変われば、
危険も許されていた。今にしても、昭和と平成と令和の違いに見る。
人を一人殺して重大な犯罪、国と国が争えば、大量殺戮にて勲章を得る。
実に狂った世の中であるが、今でもそれは続いている。人間というのはただ愚かである。日本非核三原則をもって、少し平和が続いているが、時経ちて、再び核武装が適当であるとの議論となっている。まさに、のど元過ぎて熱さ忘れる。
愚かを突き進む。もっともらしい正当性をかざしながら。
核武装こそが他国からの侵略の抑止力となると、して、戦争に突き進む方向性を持つ。再び後悔して、二度と過ちを繰り返さないとして決心するも、慾に絡む道理にして過つ。それが動物である人間である。精神があるも、悲しい性を超えられない哀れさを有す。
少し驚きの話をする。世界の警察と言われていた米国が、北の国が核開発をしているさなかを知っていながら、なぜその時点で止めさせなかったのか。
知る人ぞ知るは継がれていくが、結局北の国は核保有国となった。
その昔、「はたなかおさむ」という人が旧陸軍中野学校にいた。
北の国は隣国、昔の日本軍は強かった、かなり方面に侵略していき、それぞれの国と争いをしていた。ある意味「悪」でもあった。
どの国からも一目置かれて、要注意国であった。様々に戦争を体験して敗戦国となり、その野蛮さは恐怖の中に封じ込められ、二度と返り咲かない様ににされていった。その未来は、野蛮にして察しがついていたと思われる。
「拉致」という在ってはならない事件が起こり、やがて世界に知られるようになった。今、日本国も核保有とするべき議論がされる。近隣国からの脅威から国を守るためとして、当然ながら正当な議論とされる時代を得る。
技術は日本は優れているため持とうと思えば持てるのだが、ある意味、それはカラクリとして、すでに保有としている。「拉致」が関わる。だから、これからも公然と持つことは無い。持ってはいけないのである。
現代の科学、遠くからピンポイントで的に当てられる技術を有する。それこそ、科学技術は悪の進化エネルギーとなって、作ったものは使いたくなる心理を有す。
そのため何が何でも持ってはいけないとする人の意見は正しい。いや、抑止力として持つべきであるという人、正しいと見えても間違いである、過去の歴史がそれを示唆している。我が国、そういう話題が起こり、現政権にしてその方向性にあるのはいただけない。もし、悪の進化の正当性にして進むなら、
2032年頃、運命は共同体にして、地上は荒廃の姿を現す。
作れば使いたくなる、持てば使う愚かさを学習してきたはずであるが・。
教育は「道徳」が分かる人を頭が良いとするのが本物の人である。