38歳からの百姓志願~実践編。

霊峰・石鎚を仰ぎ、瀬戸内の陽光を望む愛媛県西条市、「有機菜園 藤田家族」無農薬・無化学肥料の野菜と暮らし。

修学旅行、紫雲丸。

2013年05月11日 | 農と暮らしの日記
春じゃが芋のひとつ、男爵の畑。
6列のうち5列まで草むしりが終わって、ちょっとすっきりした。花が咲き始めており、草むしり中にうっかり株もとの土を掘ってしまったりすると、小さな芋がちらほらと見える。

春のじゃが芋はずっと草に困ってきた。
初期生育に時間がかかっているうちに草だらけになってしまっていたのだけれど、昨年、今年と、しっかりと時間をかけて浴光催芽をしたら定植から発芽までの日数が短くなり、草に負けない速度で育ってくれるようになった。
それだけのことに、何年もかかっている。



土曜、午前中はまだ時々小雨。午後は曇り、夕方は少し晴れ間あり。
朝:6時半頃からごはん。
荷造りして、新居浜の土日直売所「こんかい屋」に8時半頃出荷。いったん帰宅し、9時過ぎにフジグラン西条にも出荷。

午前:追加で荷造りし、10時半頃にフジグラン西条に本日2度目の出荷。
帰宅して温室内のピーマン苗を訓化のために庭先に出す。それから、枝豆をまた少しセルトレイに播く。

午後:13時頃から、ズッキーニをセルトレイに播く。
14時頃から机しごと。16時頃から明朝出荷分の収穫、17時頃からまた机しごと。

夜:19時から居酒屋Yで飯盛会の総会。
最初に決算報告、新年度の活動予定など。以降は主に懇親。久しぶりに生ビールをたっぷりいただきました。
23時前に帰宅。



真が広島方面への修学旅行から帰ってきた。
帰ってきたといっても出かけたのが昨日だからあっという間だけど。2日とも雨模様だったが、昨日は平和記念公園、広島風お好み焼き、宮島で買い物と宿泊、今日は厳島神社の見学、水族館、そして帰路に就いて途中の鷲羽山ハイランドでランチバイキングにアトラクションと、存分に楽しんできたようだ。
(上記のように僕は夜の会で、まだ土産話を聞いていない)

僕たちの時は高知方面だった(徳島も少し)。
高速道路はまだなかった時代。初日の昼食は弁当持参で桂浜、それ以外の見学地はあまり覚えておらず、夕方の買い物ではりまや橋の辺りを歩いたような……。そうそう、旅館での夕食は皿鉢(さわち)料理だった。そして夜はなぜだか寒くてなかなか眠られず、何度も起き上がっては窓の外の夜景を見ていた記憶がある。
遠く赤信号が点滅しているような風景……。

小学校の修学旅行が広島に行くようになったのは本四連絡橋ができてからなのだろうか。
ということが頭に浮かんだのは、今朝のニュースで今日が「紫雲丸事故」からちょうど58年目にあたるということを聞いたからでもある。昭和30年(1955年)の今日5月11日、香川・高松と岡山・宇野を結ぶ国鉄の連絡船紫雲丸が貨物船と衝突して沈没し、修学旅行の小中学生多数を含む168名が亡くなった事故のことは子どもの頃から何度となく耳にし、おそらくテレビのドキュメンタリーなどでも見て知っていたつもりだった。
宇高連絡船は僕自身も学生時代に何度も利用している。

ところが、犠牲者の中に現在の西条市立庄内小学校の児童らもいたことは、全く頭の中になかった。
子どもの頃には繰り返し聞かされていたのをいつの間にか忘れてしまっていたのか、あるいはその頃はまだ同小は西条市ではなく合併前の「東予市立」だったこと、さらに遡って事故当時は「三芳町立」であったことから子ども心には身近に感じられなかったのか、はたまた、大人になってからも我が子を持つまでは幼い命の失われることや親の心というものに思いが至らなかったということがあるかもしれない。
いずれにしても、亡くなった子どもたちや遺族の方々には同郷の人間として申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

同校では毎年、追悼の行事が行われているという。
昨年度の6年生が作詞したという「あの日、あの時」を、もしかすると真たちも学んでいるかもしれない。事故がその実現を大きく後押ししたといわれる本四架橋の瀬戸大橋をバスで渡って、真たちは元気に帰ってきた。

全員参加で無事に旅を終えることができたのが何より。
校長先生はじめ先生方、バスの運転手さん、添乗員さん、旅先各地のみなさん、ありがとうございました。
コメント
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