唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (10) 五位無心 (8)

2016-12-25 10:48:29 | 『成唯識論』に学ぶ


part(1)でここまで読ませていただきました。
 「『摂論』の書き下しを記します。
 ここは、第八識の存在証明にもなります。「衆名品第一の一」です。
 「云何が此の識を或は説いて、阿陀那識(アダナシキ)と為すや。
 能く一切の有色の諸根を執持し、一切の受生(ジュウショウ)の取の依止なるが故なり。何を以ての故に、有色の諸根は此の識に執持せられて、壊せず失せず、乃し相続して後際(ゴサイ・未来世)に至る。又、正しく生を受くるの時、能く取陰(シュウン)を生ずるに由るが故なり。故に六道の身はみな是の如く取る。是の取の事用(ジユウ)は識に摂持せらるるが故に説いて阿陀那と名く。
 或は説いて心と名く。仏世尊の心意識と言えるが如し。
 意に二種あり、一は能く彼の生ずる與(タメ)に、次第(シダイ・物事の順序)縁の依止なるが故に、先に滅せる識を意と為し、又識の生ずる依止なるを以て意と為す。
 二には有染汚(ウゼンマ)の意、四煩悩と恒に相応す。一には我見、二には我慢、三には我愛、四には無明なり。
 此の識は、是れ余の煩悩識の依止なり。此の煩悩識は第一に由って依止して生じ、第二に由って染汚す。
 塵(ジン)を縁じ、及び次第して、能く分別するに由るが故に此の二を意と名く。
 云何が染汚心有るを知ることを得るや。
 若し此の心、無ければ独行無明は則ち有りと説くべからず。五識と相似せる此の法は応に無かるべし。何を以ての故に、此の五識は共に一時に自の依止有り。謂ゆる眼等の諸根なり。」
 part(2)
 「復次に、意の名は応に義有ること無かるべし。
 復次に、無想定と滅心定とは、応に異り有ること無かるべし。
 何を以ての故に。無想定は有染汚の心の所顕なるも、滅心定は爾らず。若し爾らざれば、此の二定は応に異らざるべし。
 復次に、無想天の一部に於て、応に無流無失を成ずべし。染汚無きが故に。中に於て、若しは我見及び我慢等無けん。
 復次に、一切時の中に我執を起して善・悪・無記の心中に遍ず。
 若し此の如くならざれば、但だ悪心のみは我執等と相応するが故に。我及び我所には此の惑行ずることを得んも、善と無記との中に於ては則ち行ずることを得ず。若し二心同時に生ずと立つれば、此の過失無し。若し第六識と相応して行ずと立つれば、この過失有らん。
 独行無明及び 相似の五識無く、二定の差別無く 意の名に義有ること無く、無想に我執無く、一期の生は無流なり、善悪無記の中に、我執は応に起るべからず。汚心を離れては有ならず、二(染と雑染)と三(三性の心・善悪無記)と相違す。此れ無ければ一切処に 我執は生ずることを得ず。真実の義を証見することを 惑障は起さざらしめ、恒に一切処に行ずるを、独行無明と名く。
 此の心は染汚なるが故に、無記性に摂す。
 恒に四惑と相応す。
 譬へば色・無色界の惑は是れ有覆無記なるが如し。此の二界の煩悩は、奢摩他の所蔵なるが故に。
 此の心は恒に生じて廃せず。
 第二の体を尋るに、阿黎耶識を離れては得べからず。此の故に阿黎耶識を成就して意と為す。此に依って種子を為すを以て余識生ずることを得。」

『摂大乗論』(正蔵31・114a19~b19)、原文を掲載します。
  先滅識爲意。又以識生依止爲意。二有染汚意。與四煩惱恒相應。一身見。二我慢。三我愛。四無明。此識是餘煩惱識依止。此煩惱識由一依止生。由第二染汚。由縁塵及次第能分別故。此二名意。云何得知有染汚心。若無此心獨行無明則不可説有。與五識相似此法應無。何以故。此五識共一時有自依止。謂眼等諸根。復次意名應無有義。復次無想定滅心定應無有異。何以故。無想定有染汚心。所顯滅心定不爾。若不爾此二定應不異。復次於無想天一 期。應成無流無失無染汚故。於中若無我見及我慢等。復次一切時中起我執遍善惡無記心中。若不如此。但惡心與我執等相應故。我及我所此或得行。於善無記中則不得行。若立二心同時生。無此過失。若立與第六識相應行。有此過失 無獨行無明 及相似五識 二定無差別 意名無有義 無想無我執 一期生無流 善惡無記中 我執不應起 離汚心不有 二與三相違 無此一切處 我執不得生 證見眞實義 或障令不起 恒行一切處 名獨行無明此心染汚故無記性攝。恒與四惑相應。譬如色無色界惑。是有覆無記。此二界煩惱奢摩他所藏故。此心恒生不廢尋。第三體離阿黎耶識不可得。是故阿黎耶識成就爲意。依此以爲種子餘識得生。(無著造・真諦訳)

 一応ここまで読んでおきます。解説は後日にします。