唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第八倶転門 (5) 随縁現 (5)

2016-12-04 21:46:36 | 第三能変 第八倶転門
  

 起滅分位門を読み解くところですが、前段の「濤波(トウハ)の水に依るが如し」は、五識を喩ているわけです。「水」は第八識で、「五識」は濤波になります。濤も波も字義は「なみ」を表しますが、「波」はさざ波のように小さな波を表しし、「濤」は大きな波を表します。長く連なるという意味があるそうです。一浪が起こって、また次の二浪が起こってくるのですが、一浪の縁と二浪の縁とでは条件が違っているのですね。五識は第八識に依るのですが、現行は衆縁を待って起こってきますから、眼識は九つの生縁を必要とし、耳識は八つ、鼻識・舌識・身識は七つを生縁として起こってくるのです。
 意識は五つ、末那識・阿頼耶識は四つを生縁として起こってきます。
 そこで、大事なことは、末那識と阿頼耶識はいつでも、どこでも一緒に動いているということです。ですから、阿頼耶識は表面には出て来ないのです。こういう所で、蔵識の異名としての阿頼耶識を読み取っていければ「善悪のふたつそうじてもって存知せざるなり」という宗祖のお言葉も響いてきますね。
 条件が変われば、波の大きさも変わる。穏やかな海が悪魔のように牙をむく時があるわけです。地震という地殻変動が津波を引き起こしてくるのですが、一つのプレートを末那識だとすれば、もう一方のプレートが阿頼耶識でしょう。一方のプレートが動けば、自ずからもう一方のプレートは動くわけです。末那識と阿頼耶識の関係はこういうことだと思います。これは水面下の動きですから見えてきませんが、波を見て水面下の動きを察知していかなければならないと思いますね。
 ともかくも、五識が動くのは条件次第であるということになります。このことを『論』は「或は倶なり或は倶に起らず。外縁の合することは頓・漸有るが故に、水の濤波の縁に随って多少なるが如し。」と述べています。
 この外縁が問題です。能変の識でしょう。能変が転じて二分の所変を現わすわけです。そして所変の見分を能縁とし、所変の相分を所縁としている種子と有根身が外縁になるわけでしょう。つまり、身と倶にある有漏種子が問題であるわけです。外縁として、問題は外からやってくると思い込んでいるのが有漏の問題ですね。違うんですね。何も問題は無いのです、「これでいいんだ」という世界なんでしょう。が、ですわ。「が」がつきます。「たら」もつきます。みんな有漏なんです。有漏に気づけよという催促があるわけでしょうが、有漏に気づいたら、ここでも「たら」がついています。我執を支えている我執の深さでしょうね。「捨ててこそ」です。そうしますと、有漏そのものが無漏であったということなんでしょう。それが「生かされている命の感動」なのではないでしょうか。