唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (38) 第九・三界分別 (4)

2016-03-09 22:31:02 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 逸話は『大毘婆沙論』巻第六十九(大正27・359b)の出ています。
 謗滅の時と、潤生の時を述べているのですが、前半は色界第四禅天の中有に在って欲界の邪見を起こすと云われてます。解脱を謗るのですね。謗ること(邪見)によって後の十の随煩悩を受けることになるわけです。
具体的にはどのようなことなのかわかりませんが、仏法を聴聞して陥る傲慢性を指定されているのでしょうか。関連してよいものかどうかわかりませんが、親鸞聖人は、
 「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり 。」
 と邪見の相を見ておいでになります。これを受けられて蓮如上人は、
 「たとい牛盗人とはよばるとも、仏法者後世者とみゆるようにふるまうべからず。またほかには仁義礼智信をまもりて王法をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねんごろにおおせさだめおかれしところに、近代このごろのひとの、仏法しりがおの体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもって当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまっさえ相伝もせざる聖教を、わが身の字ぢからをもって、これをよみて、しらぬえせ法門をいいて、自他の門徒中を経回して、虚言をかまえ、結句本寺よりの成敗と号して、人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実、あさましき次第にあらずや。」『御文』第三帖第十一通(真聖p810)
 と教えてくださっています。

 そして十の随煩悩を潤す時が「潤生の時」であり、「愛と倶に」この時の愛は貪愛です。仏法に触れて、「人生とは何か」という考える縁をいただいた時は欲界から色界へという精神の深まりがあるわけでしょう。仏法に触れた感動があるわけですね。「僕が求めていたのはこれだ」というわけです。僕自身そうでした。しかしいつしか色あせて世間の中に埋没していました。それは仏法を聴いたのは自分だという思いでした。仏の境界を自分の境界に持ち替えていたのです。持ち替えたとたんに、持ち替えそのものが邪見ですから法謗を起こしていたわけです。知る由しもありませんでしたがね。そして貪愛を起こして後の十の随煩悩を起こすのであると教えられているのですね。
 でもね、仏法に触れたという事実は残ります。ここが大事なことですね。触れたところから問題は起こったということなのです。触れなかったら煩悩などは問題にならないですね。自分は善であるという立場ですからね。常一主宰の独裁者(我)に煩悩は見えないんですよ。我はわかりますが、執は見えないですね。触れて初めて気づかされる世界が執ですね。しかし、この執を持ち替えてしまうのです。いうなればこの執を闇の中に葬り去るのです。そして「自分はわかっている」、これが貪愛の正体ですね。仏法を剣として自己正当化を図るのです。これは「謗滅の問い」と「潤生の時」の二つを兼ね備えています。
 次の科段を述べた後に考えてみたいのですが、五逆と謗法の問題と大きく関わっている問いを提起しているように思います。
 色界に在りながら欲界の邪見を起こしてきます。欲界の邪見は不善ですから不善心に遍く存在する中随煩悩の二つを起こします。また不善心と有覆無記心に遍く存在する大随煩悩の八を起こしてくるわけです。