唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (43) 第十 上下相縁門 (4)

2016-03-20 01:05:12 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 前回は雑感になりましたが、今日は前回の続きになります。後半です。
 上地に存在する随煩悩(小随煩悩の誑・諂(色界初禅)と憍(三界に存在する)と大随煩悩の八(三界に存在する)、上地に在る場合は有覆無記として存在する)が下地を縁ずることが有るのか否かを論じます。

 「大の八と諂と誑とは上にして亦下をも縁ず、下縁(げえん)の慢等と相応して起るが故に、梵(ぼん)いい釈子(しゃくし)の於に諂・誑を起せるが故に、憍は下を縁ぜず、所恃(しょじ)に非ざるが故に。」(『論』第六・三十四左) 
 梵は色界に存在する梵王のこと。釈子は欲界の馬勝比丘のこと。
(大随煩悩の八と諂と誑とは上地に在ってまた下地をも縁ずる。何故なら、下縁の慢等と相応して起こるからである。(例が挙げられます)例えば(「梵王の馬勝の手を執るは是れ誑・諂なるが故に」)大梵天王が馬勝の手を執ったのは誑と諂によるものである。憍は下地を縁ずることはない。何故なら、下地は上地から見て恃む所のものではないからである。)

 例えばという逸話は『大毘婆沙論』によります(大正27・670b~671c)。『演秘』が取意として述べています。『論』に「梵が釈子に於て諂・誑を起せるが故に」ということを釈して、「婆沙論の百二十九を按ずるに、経(『正法念処経』巻第三十三(大正17・193b)に誑・諂の極は梵天に至ることを述べており、『倶舎論』巻第四(大正29・20c)に引用されています。)の説を引いて云く、云々」
 この逸話は明日紹介したいと思います。

 本科段も煩悩の諸門分別の上下相縁門に准じて解釈されるものです。そこでは「上地の煩悩も亦下地を縁ず」と説かれていました。これは上地の慢が下地を縁ずることについて説明しているのですが、直接的には慢の字はありません。しかし、「上に生まれた者は、下の有情の於に己が勝徳を恃んで、而も彼を陵すと説けるが故に」と説明しています。上地の慢が下地を見下し慢を起こしていることが分かるわけです。恃己の慢と陵他の慢という、己が勝れた徳を恃んで下地の有情を見下すという慢心ですね。
 憍は自分が自分に酔っている状態(おごりよいしれる心)ですから、上地に在る憍は、「自の盛なる事のうえに深く染著を生じて酔倣する」ものですから、上地から見て劣っている下地を恃む必要はないのです。
 『述記』は本科段を本質相分と影像相分について解釈しています。これも逸話と共に明日考えてみたいと思います。