唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (77) 第七、三界分別門 (14)

2015-04-01 20:32:55 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 福島から来られた40人程の方々とバーベキューを楽しみました。想いの他、皆さん食欲旺盛で驚きました。素材が余る事もなく皆さん満足げでした。ただ、小雨と風と少し寒かったので心配しましたが、参加者全員無事に過ごせました。何よりの事でした。(松本曜一師の投稿より)
 今日は小雨降りしきる中、大阪教区ボランティアの方々のお力添えで、福島から見えられている人達とバーベキューを楽しまれたのですね。ご苦労様でした。


 前回は、下地の貪が上地を縁じることを説いていましたが、本科段では、下地の瞋が上地を縁じる場合について説明されます。
 「既に瞋恚は滅道を憎嫉(ゾウシツ)すと説けるを以て、亦離垢地(リヨクジ)をも憎嫉す応きが故に。」(『論』第六・二十左)
 すでに、瞋恚は滅道(滅諦と道諦)をにくみきらうと説かれている、このことからもわかるように、また、離欲地という、欲界の煩悩を離れた不還果の位(ここでは、欲界を離れたと云う意味で、上界を指します。)をもにくみきらうのである。つまり、深遠なる真理である滅諦や道諦を憎嫉するのであるから、それよりも浅い事柄である離欲地をも憎嫉するのは明らかである。
 『述記』の言葉は含蓄がありますね。「深き理尚然り。何に況や浅事をや」と。
 『瑜伽論』巻第五十八をみますと、「薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見・恚(瞋恚)・貪(貪欲)・慢・無明(癡)・疑・・・是の如く説く所の十種の煩悩は、亦事を縁じ転じて、亦煩悩を縁ず、謂く十煩悩は皆自地の一切の煩悩と展転して相縁じ、亦自地の諸の有漏の事を縁ず。下地の煩悩は能く上地の煩悩及び事を縁ずるも、上地の惑能く下地の煩悩及び事を縁ずるに非ず。是の如く煩悩展転して相縁じ、及び下地の惑は能く上地を縁ず。・・・」と説かれています。
 順序は相前後しますが、『論』は始めに、(1)貪、次いで(2)瞋・(3)薩迦耶見・辺執見・慢・(4)癡・疑と見取見・戒禁取見という順序で説明されてきます。
 貪については昨日考究していますが、『瑜伽論』巻第五十八の所論では「能く躭著(タンジャク・愛着・執着)する心所を性と為す。此れに四種有り。(1)諸見と、(2)欲と、(3)色と、(4)無色界に著ずるなり。」欲界という下地と上界に執着を持つのが貪の特徴なんですね。
 次に瞋恚についてですが、「(瞋)恚とは謂く能く損害する心所を性と為す。此れに復、四種有り、謂く(1)己を損する他の見と、(2)他の有情の所とに於ける、及び(3)愛するところを饒益(ニョウヤク・利益を与えること)せざる所に於ける、(4)愛せざる所に饒益を作す所に於ける所有の瞋恚なり。」
 滅諦・道諦に対して憎嫉の心を起こすことが説かれています。
 見道所断について説かれている所ですが、瞋恚は滅諦に迷うことから起こってくるんですね、起こってきた元から、滅諦を観察して断ずる所であると云われているわけです。
  「 謂於滅諦起怖畏心起損害心起恚惱心。如是瞋恚迷於滅諦。」(大正30・623b~c)(謂く滅諦に於いて畏怖のこころを起こし、損害の心を起こし、恚悩(イノウ・いかりやなやみ)の心を起こす、是の如き瞋恚は滅諦に迷うなり。」また、道諦に迷うことについては、「貪等の道に迷う煩悩は、滅諦に迷う道理の如く応に知るべし。」と。
 本科段で説かれている「瞋」は見道所断ですから、分別起の煩悩です。
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 (過去ログより)
 「善と悪、悪は不善のことですが、本来は善しかないんですね。不善は遍計所執性ですから、妄想なんです。善は、菩提・涅槃にかかわる心所なのですね。そうしましたら、菩提・涅槃を障へるのは何かといいますと煩悩なのです。煩悩が不善の心所なんです。煩悩障とか所知障といいますね。解脱をさえぎるものです。善悪という場合は相対的概念です。善悪は道徳規範になりますね。社会生活に於いては大切な規範でありますが、ここでいわれる煩悩は私自身が私に煩い悩むことなのです。自分で自分の心を乱すわけです。『述記』には「煩はこれ擾(にょう)の義。悩はこれ乱の義なり」と教えています。意味は心が騒がしく乱れるということです。煩も悩も自分の中で起こってくるといわれているのです。煩悩は何に由るのかというと、自分なのですね。自分に執われている心が起こすのです。また見たり・聞いたり・味わったりすることが私の心を煩わしく悩ませるということがあるのですがこれは対象が煩わしたり悩ませたりするわけではないのですね。そのような心を私が持っているということに起因するわけです。私たちは見える世界に執着していますから、見えない世界には眼を向けないのですね。そこが顛倒していると思うのです。「いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」(真聖P630)ですね。やっぱり私たちはこの世に執着していますから、それを成り立たせている煩悩に由って、私の生き方が決定されてくるのでしょうね。煩悩は人生の方向を障碍する働きをするのであるということを知っておく必要が有ると思うのです。それでは煩悩にはどのような種類が有るのか、これから伺って見たいと思います。
悪と煩悩ですが、煩悩は自分が問われているということに成るのだと思います。しかし悪と云う場合は「他」との関係に於いて善か悪かということになるのではないでしょうか。他との問題と云うのは、本来は自分の問題で有るにも拘らず、問題をすり替えて、他を攻撃する場合に「悪」といわれているのではないでしょうか。「自分のことを棚にあげてよくいうよ」というようにですね。三面記事を見て人事のように呟きますね。例えば、犯罪ですね。自分は犯罪を犯さない・法律を破らないという立場ですね。その立場に立って厳しく断罪していていますでしょう。独裁者と云う場合もですね、「けしからん」というわけです。しかし独裁者は誰のことでしょうか。「他」ではなく「自」なのですね。私です。私が独裁者なのですね。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という眼差しが求められるのではないでしょうか。『歎異抄』第十三条に「一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害さざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」という視線が煩悩を縁として開かれていくことを念ずるのです。

「煩悩の心所の其の相云何。頌に曰く。 (第十二頌)煩悩とは謂わく貪と瞋と癡と慢と疑と悪見となり。(論に曰く) 此の貪等の六は。性是れ根本煩悩に摂めらるるが故に。煩悩の名を得。云何なるを貪と為す。有と有具とに於いて、染著するを以って性と為し。能く無貪を障へて苦を生ずるを以って業と為す。謂く愛の力に由って取蘊生するか故に」

 最初の三つの煩悩が三毒の煩悩といわれ煩悩の主といわれているのです。『述記』では、貪・瞋をまとめ「貪愛」といっています。それと癡です。癡は無明といわれますから煩悩を貪愛と無明の二つにまとめています。「貪」は「有」-私と 「有具」ー器世間ですね、私と私の世界です。世界といいましても私が作り出した世界ですね。一人ひとりの世界です。生まれた環境や育てられた環境、その人のもっている才能や経験によって人それぞれの世界観は違ってきます。貪りは一人ひとりの世界で染著し、そして苦を招来するのです。善の無貪を障碍して苦を生ずるといわれています。「貪愛」ということですが、「愛の力によって」といわれていました。親鸞聖人も「貪愛・瞋憎の雲霧」と云われますね。愛を貪るということなのですが、何を愛し何を貪るのでしょうか。ここにいわれることは仏を愛し・仏道を愛し・涅槃の世界を愛することを貪る、貪愛するのであるというのですね。執着を起こすのです。ここは問題ですね。大事なことを教えられています。聞法に励む・仏道を歩むこと自体に貪りの心が働くのです。聞法が好きだ・仏法が好きだというのが一番危ないのですね。貪れば皆、染汚に収められるのですから。「万のものを貪る心なり」といわれているのです。そして「貪」の深層にあって「貪」を起こしてくる働きですね。それを根本無明と云うのですね。ものの道理が判らないということです。私でいうと業縁存在であるということが判らないというこちです。五蘊仮和合といわれても実感がありませんからね。仮和合が道理なのですが、私は私だと思っていますから。これが無明だと教えられるのですね。「諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」と。
愛の力によって貪る心が起きるといわれていました。愛するということは美しい心です。人を愛し、芸術を愛する事は感性豊かな心ですね。私も長年お茶をたしなんでいますが、その一時は日頃の喧騒を離れて静かに己を見つめる機会になります。しかしその全体が苦を生んで来るのだと、いわれているのです。『成唯識論』には有と有具とに於いて、これは有は異熟果・三有果であり有具は中有・煩悩・業・器世間であるといわれています。三有とは欲界・色界・無色界の三界に生存する存在をいいます。「三界は虚妄にして」といわれますように三界は迷いの境界です。何故かといいますと、煩悩と業です。「わたしはわたし自身の業が因となり苦悩する」といわれ、煩悩から業を生じ、その業に由って苦を生ずるのですね。いわゆる自縄自縛です。私が私に貪欲をおこすのだといわれているのです。愛ということはですね、ものを貪り執着することなのです。私から出てくる貪りはerosといわれ、性欲・生存欲・生存を否定する欲の三愛であるといわれています。これが業となり(欲を起こした行為と果としての苦です)行為と云う選択肢は多様ですけれども、いったん決定し行為・実行となるとですね、その結果は自己が責任を持って負わなければならないのです。貪る心を縁としますと、そこには必然として苦が生じてくるのですね。表層の意識で三毒の煩悩が起こってくるのですが、これはどこまでもどこまでも自己を愛してやまない深層に横たわっているマナス(末那識)という意識に染汚されているのですね。最初に愛は美しく、感性豊かであるといいましたが、その底に流れている自己愛にメスを入れ、自己愛を慈愛に転ずることができれば、美しくそして感性豊かな人生を送ることが出来るのではないでしょうか。仏教は三毒の煩悩を転じて、悔いのない、豊かな人生を送ることが出来るのであると教えているのです。
仏教で云う「愛」は説明しますと十二因縁の第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られます。これを神学ではエロスといわれているのです。自己愛と定義されています。それに対するのが神の無限の愛でアガペーといわれるのですね。仏教では慈悲といわれるのが此れにあたりますでしょうか。洋の東西を問わずですね、自己愛と云う自己中心に判断を下すことは迷いや苦しみを生み出してくると教えているのです。面白いというと怒られますが、「可愛さあまって憎さ百倍」というでしょう。私に物差しが有るのですね。ここまでの範囲は許すが、ここからは踏み込むなと云うわけです。私の中に分岐点を持っているのでしょうね。人それぞれの容量は違うでしょうが、必然しているのですね。その全体が自己愛であり、渇愛(自分に対する激しい執着・貪るような執着です)といわれているのです。ですから容量を超えてしまいますと必然として怒りが湧いてくるのですね。そして沸騰しますと暴力を振るうということになるのです。怒りが出てくる背景に貪愛があるということです。貪愛があるというより、自分が見えないといったほうが適切ですね。意識せずにですね、何事も自分の都合に迎合させるわけです。しかし自分の都合通りにはいきませんから苦を生み出すのです。それさえ判りませんから怒り、腹立ちが頭をもたげてくるのです。何故そのようなことになるのかと云うと「衆縁仮和合」という道理に疎いことから起こるのですね。仏陀釈尊はこれを無明であると教え示されたのです。『成唯識論』では「内心を擾濁し、外の転識を恆に雑染ならしむ(煩)。有情は此れに由って、生死に輪廻して出離すること能わず(悩)、故に煩悩と名く」といわれています。
「貪」が何故苦を生ずるのかという問題を考えてみました。『成唯識論』には「愛の力に由って取蘊生ずるが故に」と述べられているということも考えてみました。ここでは「取蘊生ずる」ということはどのようなことなのか考えてみたいとおもいます。「愛」は自己愛・渇愛という十二縁起の愛ということであると教えられています。取は執着のことです。蘊は種類という意味です。五蘊という場合は「色・受・想・行・識/一切皆空」(『般若心経』)といわれますように、五蘊仮和合といい、本来は無我であり一切は皆空であることを言い表しているのです。しかし私は私として実体として存在し執着を起こすところから五取蘊といわれるのです。これは我執を伴っているような激しい執着だといわれているのです。私(我)と私の物(我所)として執着を起こすのですね。この様な心の状態を「貪」と言っているのではないかと思います。五蘊とはどのようなことなのでしょう。「色」は肉体を含む物質です。身体と言っていいのでしょう。「受」は感受作用で私の感覚ですね。「想」は表象作用で表現です。「行」は意思です。意識を生んでくる意思の働きです。「識」は色・受・想・行を統一する意識の働きですね。この五つは仮に和合して私というものを構成しているのです。しかし私はわたしだという思いがありますから「仮和合」とは思っていません。まして私に執着していますから、そこに苦を招来するのですね。

「瞋」について考えてみます。「苦と苦具とに於いて」瞋という煩悩が起きるのだと言われているのです。苦は四苦八苦といわれますように、今の自分が壊れるのではという不安からくる苦ですね。(壊苦)。それから近頃は寒い寒いといいますね。それが苦になるのです(苦苦)。それから行苦です。自分が常にあるという思いがありますが、本来は無常・無我ですね。そのギャップに苦しむのだと言われているのです。この三苦を苦といわれるのです。苦具は苦に備わったもの、苦を生んでくるすべてですね。それが心を激しく乱すわけです。怨みですとか、嫉妬ですね。これ等が激しく心を乱し怒りを生んでくるのです。「一切能生活者」といっていますね。性は「憎恚」するといわれます。憎み怒るということです。怒るということはもう鬼の形相ですね。相手を睨みつけて、威嚇していますね。怒ったときを想像してみますと、眼を見開いて睨みつけていますでしょう。この心を瞋というのです。そして根に持つということがありますね。いつまでもですね。これを恚というのです。『成唯識論』には「苦・苦具とに於いて、憎恚するを以って性と為し。能く無瞋を障へて、不安と悪業との所依たるを以って業と為す。謂く瞋は必ず身・心をして熱悩して諸の悪業を起さ令む。不善の性なるが故に」と教えています。
親鸞聖人は煩悩の身を生きる者を凡夫といわれていました。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)と凡夫の心の内実を自身の身の上に於いて明らかに指し示してくださいました。この心の状態は日常的に起こっているもので、私の心のあり方を言い当てられています。鋭く厳しい指摘は「ひまなくして」ということです。いつでもですね、真実を知ろうとする心を徹底的に妨げるのです。欲もおおく、貪欲です。怒り、腹立ち、そねみ、妬む心は瞋恚ですね。それが臨終の間際まで絶えず、きえずといわれていました。煩悩の天敵は求道心・菩提心なのです。真実を知られたくないのです。ですから徹頭徹尾真実をしろうとするこころを妨害します。そして真実でないものを真実と思い込ますのでね。私はそれを頼りに生きているのです。この間の事情は善導の二河白道の譬えが絶妙に語っています。「月日は百代の過客にして、いきかう年もまた旅人なり」といわれますように人生は当てのない放浪の旅のようです。その中から一筋の光を求めて自分探しをするのも人生の大切な事ではないかと思うのです。自分探しをする時「自己とは」という問いの前に道を塞ぐように貪・瞋の煩悩が行く手を遮るのです。私の人生の中で初めて具体的に煩悩が問題になるのですね。二河白道は貪・瞋の煩悩を水火の譬えで言い表しているのです。「一切往生人等に白さく」と。求道心を持って道を歩む人ですね。真実を求めて歩いた途端、自分の中から障碍する貪・瞋の煩悩が頭をもたげてくるのです。ですから私の中から「能生清浄願往生心」(能く清浄なる願往生の心を生ぜしむる)が起こって来るわけは無いのです。「生ず」とは云われていませんね。「生ぜしむ」と云われ、ここに法蔵願心を思わずにはおれません。「設我得仏・若不生者・不取正覚」という願心ですね。私が目覚めるまで、どこまでも、地獄のそこまでも、あなたと共に流転していきましょう、という願心に限りない慈愛を感じますし、限りない恩徳を感ぜずにはおれないのです。親鸞聖人はこの「心」を「無上の信心、金剛の真心を発起するなり。これは如来回向の信楽なり。」と如来回向の信を明らかに指し示してくださいました。「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」(真聖P225)は私のことを言い当てているのですね。この心に「今」決着をつける時なのではないかと思います。決着をつけた時、一つの白道が開かれてくるのではないでしょうか。この道を歩めというわけですね。なぜかといいますと、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」と。いずれの道を選んでも「死」とまぬがれることは無いと云うことです。仏法不思議といいますが、聞法の縁ははかりしれないのです。縁無量ですね。よき人とのち値遇によって「我が身」が問われることになるのです。この時、死の問題が眼前に迫ってくるのです。死の問題はイコール生の問題であるわけです。生きることの意味が問われているのです。三定死の眼差しから歩むべき道が見いだされるのではないかと思います。それが「往生極楽の道」を問うということであり、「すでにこの道あり、必ず度すべし」ということに頷くことなのではないでしょうか。そして「我寧くこの道を尋ねて前に向うて去かん」という歩むべき道が定まるのです。「本願力にあいぬれば/むなしくすぐる ひとぞなき/功徳の宝海みちみちて/煩悩の濁水へだてなし」
二河白道の譬えから教えられますのは、貪・瞋の煩悩は非常に荒々しいと云うことです。身を焼き尽くすばかりの炎、波打ち際に打ちつけられそうな波浪に譬えられる水火の煩悩は一歩も前に踏み出せない荒々しさを持っています。静かに自分を観察していますと一日中水火の波が襲っていることがよくわかります。これは二元的にしか生きることが出来ない宿業なのでしょうか。少なくとも私は何時も責任を他に転嫁しつつ悩み苦しんでいますから、宿業と言われれば心を突き刺す衝撃を受けるのです。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく」といわれますように煩悩渦まく世界に執着し、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもする」私なのです。そして善を成すのも悪事を働くのも業縁だよ、といわれているのですね。相対的に生きていることは善か悪か無記のいずれかなのです。それも自己中心的にですね、そこから抜け出せないのです。闇に閉ざされているのですね。これが無明煩悩といわれる愚痴なのです。貪欲・瞋恚の所依になります。 

 「云何なるをか癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを以って性と為し。無癡を障えて一切雑染の所依たるを以って業と為す」               (『成唯識論』)

 道理と事実です。道理によって事実が成り立っているのですが、それがわからないということです。諸行無常・諸法無我は道理ですが、それが頷けないので道理でない我を立てて生きているわけです。それは闇であり迷いであると教えています。生きているのも道理ですが死もまた道理なのです。「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」と清沢先生はお教えくださいました。「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきなばかの土へはまいるべきない」とは親鸞聖人のお言葉でした。前にも言いましたが命は与えられたものであって私有化できるものではないのです。「生かされてある命」なのですね。縁によって生かされているのです。そこにですね、命の大切さが教えられているのではないでしょうか。しかしながら私たちは道理と事実に背いているわけですね。それを迷闇となり雑染の所依となるのです。すべてが自己中心に考えていくということです。「私が・私が」と我執から出発するのですね。迷・闇によって経験のすべてが執着的経験となるのですね。その根拠になるのが癡という煩悩なのです。それが闇の中の出来事であると教えているのです。理と事に於いて無痴であるところから自己の内に貪りをおこし、外に対して自分が無視されたと、怒りをぶつけるのです。これが貪・瞋・癡の三毒の煩悩といわれているのです。」