「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。」(『御伝鈔』真聖p729・『歎異抄』p639)
ー ・ ー
第三能変 起滅分位門
ー 重睡・悶 (2) ー
極睡眠というのは、私たちが日頃、夢を見たりするような睡眠を指すのではなく、夢も見ない、起こらない極重の睡眠を指し,亦悶絶も極重の悶絶を指すのですね。
「疲極(ひごくー身疲労し疲極す、といわれるように、つかれきっていること)等の縁あって睡をして有ることを得しむ。有心のときを名づけて睡眠となす。これを無心ならしむるが故に極重の睡と名づく。」(『述記』第七・八十六左)
と云われますように、疲労ということが縁となっているのです。「身疲労し」といわれていますね。心が疲労し、とはいわれていません。心が疲労しているときは、睡眠も、うとうとだったり、夢心地だったりするわけです。「心が」という場合は不定の心所の一つで、眠(めん)といわれています。「眠とは、謂く心をして昧略ならしむを以て性と為す。」と。この時は、煩悩が種子として潜在している状態で、眠っている心ですね。
ですから、無心の睡眠には不定の心所である眠の心所はないのです。身の分位であると。ただ眠に似たものであるので、仮に立てたといわれています。『述記』に問いを立てて答えています。
「此の睡眠の時には、彼の体なしと雖も而も彼に由って、彼に似る、故に仮に彼の名を説く」(『論』第七・十五左)
「問う、此に既に心所の眠なし。何を名づけて眠となし、而も論の中と大論の無心地等に説いて眠となすや、
「(答え)これに二解あり。一に由、二に似なり。この眠の時には彼の心所の眠の体は無しと雖も、而も彼の加行の眠の引くに由る。あるいは沈重にして不自在なることは、彼の眠の心所ある時に似る。二義を以っての故に、無心なる身の分位を仮説して眠と名づく。実に眠にあらざるなり。」(『述記』第七本・八十八右)
次に悶絶ですが、これも睡眠と同じように、身の分位になります。
「大論の第一に、悶絶はこれ意の不共業なりと説けり。即ち悶の時に、ただ意識のみあるによる。悶は心所法にあらず。末摩(まつま・marmanの音写で死穴、死節ともいう。)に触するを以って悶が生ずること有るが故に。悶は即ち触処の悶なり。」
「末摩というは梵言なり。此には死穴と云い、或いは死節と云う。順正理論の第三十に云わく、末摩は別物無し。身に異の支節ありて触する時は便ち死を致すといえり。」(『演秘』第六本・十九右)
断末の叫びですね。悶絶とはそのような身の上に起こることなのです。風熱等の縁なくして、悶絶を起こすならば、これは心所であるけれども、風熱等の縁によって、身の分位を引くのである、と云われています。
「二無心定と無想天と及び睡と悶との二と、この五の時と除き、第六の意は恒に起こる。縁が恒に具せるが故に。」(『述記』第七本・八十九右)
(意訳)無想定と滅尽定と生無想天と睡眠と悶絶の五位を除いては第六意識は恒に起こるのである、何故ならば、第六意識が起こる縁が恒に起こっているからである。