唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

不定ー睡眠(すいめん)その(3)

2010-03-26 23:30:56 | 心の構造について

  「謂く睡眠(すいめん)の位には身をして自在ならざらしむ。心をして極めて闇劣(おんれつ)ならしむ。一門のみに転ずるが故に。」(『論』  

 「上の不自在を釈す。身不自在とは制せられ自ら専ならず。心の不自在とは心が極めて闇劣なるなり。一門のみに転ずるとは、ただ一の意識のみにあり。都て五識になし。闇劣に転ずるが故に。明了なるときなし。余の心が、また五識にもあるを別んがためなり。闇にして劣昧なること有り。明了なる時なきが故に。」(『述記』)

 睡眠は体の自由を奪っていくのですね。動かなくなってきます。それを「身をして自在ならざらしむ」といっています。心が正常な働きをしないのは心が極めて暗くなってだんだんと動かなくなる状態をいいます。「心が極めて闇劣なるなり」で「一門のみに転ずる」と云われ、心は一つのものしか動かなくなるのです。ここで云われます睡眠は普通の生活の中での睡魔とは随分様子が違います。煩悩・随煩悩・不定の心所はおしなべて見修所断の修行の中で問題になる事柄なのです。睡眠は暗くなるといわれますから意識が薄れてくるのですね。はきりしていた意識が劣ってくるということですね。昧は三昧のことで禅定でしょう。禅定は明了なわけです。明了ということは六識すべてが生き生きと明らかにしているのでうから、睡眠は暗くなるということに於いて禅定とは違うのです。

 「昧と云うは定に在るを簡び、略と云うは寤(さ)めたる時を別(わ)く。令(りょう)と云うは睡眠は体・用(ゆう)無ききに非ざることを顕す。』(『論』)

 三昧は禅定ですから睡眠は禅定ではないというわけです。そして醒めているときは心が生き生きとして働いているわけですから、それとは違うと、生き生きと働いていない時であって、生き生きとしている時ではないと言っているのですね。何故このようなことを云うのでしょうか。それは「体・用が有る」からだというのです。独自の働きが有るというわけです。睡眠と云う独自の働きが有って他の意識が左右されるのですね。他の意識が薄れて眠くなるのではないのです。睡眠と云う状態が他の意識を眠らせるのです、と教えています。「眠」という心所が有るということになりますから、定に簡ぶのです。くれぐれも注意が必要なのは禅定のなかでの睡眠と云う心所の問題であり、日常の生活の中での睡眠とは違うという事です。睡魔が襲って眠りに就くという事は大事なことです。逆になりますと睡眠不足になりますし、不眠症と云うことにもなりかねません。しかし、眠る時になり眠りに就くのはやはり睡眠という心の働きに依るのでしょう。眠りましょうという催促があって眠れるのでしょう。やはり夜はぐっすりと眠らなければなりませんね。おやすみなさい。