唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

不定の心所ー悔(け)万(よろず)の事を悔やむ心

2010-03-21 22:16:29 | 心の構造について
 今日は叔父の満中陰法要が営われ、納骨をすませてきました。今朝がたは空が黄砂の影響で大変霞がかかっていました。大空も薄い膜が張られたようで光が差し込む余地がないくらいでした。この光景を目の当たりにした時「たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。」という『正信偈』のお言葉が胸に響いてきました。光が覆われるとはこのことを云うのだな、と思ったのです。黄砂は「貪愛・瞋憎の雲霧」だったのです。それが「真実信心の天を覆っていたのですね。先日来煩悩について述べてまいりましたが、煩悩・随煩悩ともにその性質は染汚なのです。不善と有覆無記ですね。不善は悪ですが、有覆とは悪に覆われてはいるけれども、悪と云う程の事は無く、濁れる心なのです。不善・有覆ともに性質はすべて穢らはしいと云う心なのですから染汚性の法といわれるのですね。『論』には煩悩の定義として「内心を擾濁し、外の転識を恆に雑染に成らしむ。有情は此に由て生死に輪廻しつつ出離すること能わず。故に煩悩と名づく。」といわれていました。二つの意味が有るのですね。内に煩悩そのものも穢れているということ。そして外にたいして、といいましても、内なる外ですね、心所をも穢すので染汚というのです。このことは煩悩の項で述べています。
 三月も今日は春彼岸の中日、各地の寺院には多くの参拝者が見受けられ、早くも桜前線が大阪までやってきました。それと同時に保育園・幼稚園の卒園式も見受けられ可愛い幼子の旅立つ姿が印象的でした。息子もこの春、高校を卒業し四月から大学生になりますが、「夢と希望をもって」の姿は晴れやかですがすがしいものを感じます。
 さて、「不定」の心所にはいります。はじめは「悔」についてです。
 「悔というは、謂く悪作(おさ)なり。所作の業を悪(にくむ)で追悔(ついけ)するを以って性と為し。止を障うるをもって業となす。」
 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれるのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』の中で云います。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)また『信巻』信楽釈に「雑毒の善・雑修の善」といわれるような自己の姿をみておいでになります。其の善行は「虚仮の行・諂偽の行」であるという確信を以って如来大悲の大海に身を任せておいでになる聖人のお姿を垣間みることができますね。『述記』に慚・愧についての記述があります。「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるのです。作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくるのです。悪(お)が後悔の因になるのですね。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になりますね。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないでしょうか。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」という、後押しをされているのではないかと思います。