唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

能変の体を彰す (7) 了別境識

2013-12-11 21:48:58 | 心の構造について

「識体転じて二分に似る」という解釈がですね、護法さんと、安慧さんとでは相違するんです。玄奘は「転」はパリナーマ、転変を、能変と所変に分けて訳されています。また能変を、ヘートウ・パリナーマ(因能変)とパラ・パリナーマ(果能変)に分け、厳密に訳出されています。

 能変が転変して、見・相二分という所変を現出してくるわけですが、この二分は転変と同時に第七末那識の影響下におかれ、染汚されるわけですね。ですから、染汚された見相二分は計度されたものといえるわけです。この点から、安慧菩薩は、識体は依他起性であるが、転変した見相二分は遍計所執性であり、分別されたものであるから、相は無であるとし、無相唯識を立てられているのです。しかし、護法菩薩は、転変するのも縁起であるとし、見相二分も依他起性であると押さえています。教証は『中辺分別論』ですね、「虚妄分別は有り」と、虚妄分別が自覚自証の手がかりとなるのですね。迷いも依他起であるが、自覚自証も依他起に於てである。護法菩薩は、ここに、有相唯識として、迷いも縁起・悟りも縁起とし、迷いの構造を明らかにされているのです。

 識体を能変。転変して所変を現ずるわけですが、この場合、能縁に似る見分と所縁に似る相分とになり、見分が相分を縁ずるという構造によって、認識が成立するのです。これが「相と見とは倶に自証に依て起るが故に」と説かれています。しかし、認識が成立したとしても、知るということにはなりません。知るということは、能変である自体分に於て成り立つのです。

 識体転じた見相二分は、依他起であることに於て、我・法は実に有るものではないことを明らかにされていますが、転変する働きを持つ識体・能変の識に三類あると説かれていて、初能変は第八識であり、第二能変は第七識であると説かれていました。

 第三の能変は了境です。了別境識です。

 「三には謂く了境。即ち前六識なり。境相の麤を了するが故に」

 「境相の麤」について『述記』には、「前六識は同じく麤境を了すること七・八に異なるを以ての故に合して一名となせり、・・・・・七・八二識は行相麤をば了せざるが故に・・・」

 と説明されています。

 前六識は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの心です。境は対象、了は了別、別けて理解するということ。麤は細に対する語で、あらい、大雑把という意味になりましょうか。

 前六識は、深層の識のように細ではなく、大まかに理解しているといえます。

 麤中の麤は凡夫
 麤中の細は初地以上の菩薩
 細中の麤は八地以上の菩薩
 細中の細は仏地

 である、と『大乗起信論』は述べています。

 「及という言は、六を合して一種と為すということを顕す」

 『述記』は「及というは合集の義なり。境を了する識いい六種不同なれども今は合して一として名づけて了境と為すを以て、故に及と言うなり。及の字は相違の及等に通すと雖も、今は合集なることを顕わさんとして、故に及の言を解す」と述べています。

 「及」には、合集の義と相違の義あることを言っています。A及びBという時はAはBではないから相違の義になりますが、AとBを合せてという場合は合集の義になりますから、この六を合して一種となす、というのは合集の義であることを顕わしています。

 次回は、先に因能変の概略を述べていますので、果能変について考えさせていただきます。