唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

能変の体を彰す (2)

2013-12-06 22:36:26 | 心の構造について

 能変の識を、三類三能変として『成唯識論』で説かれていますが、これは並列的に述べられたものではなく、重層的な構造として説かれているのです。

 初能変 - 異熟識
 
第二能変 - 思量識
 第三能変 - 了別境識

 初能変の異熟ですが、善悪業果の位を異熟と表されています。果報ですから、「今」ですね、現行している位を指します。

 第二能変の思量識は、現行している異熟の上に、我を思い量り続ける識で、恒に我・我と執着を起こしている識になります。自分のことを思い量っている、自分では自覚することが出来ないが、気づかない心の底で潜在的に自分のことを思い続けている自我執着心なのです。

 第三能変は、了別境識。了境と表されています。境を了するということで、対象を認識するということで、顕在的な前六識の認識の有り様をいいます。

 このように三層八識をもって、人間の生命の働きを説き、迷いの構造と、悟りの構造を重層的に説き明かしているのです。

 能変唯三 (下三句を釈す)

 「論に、識所変の相は無量種なりと雖も、而も能変の識の類別なることは唯三なり。」(『選註』p29)

 識が変ずる所の相は無量であるけれども、相を生起させる能変の識の類は唯だ三のみである。

 『頌』に「此れが」とでますが、「此れ」でしたら、能変を指しますが、「此れが」というと、・・・がですから、前を受けています。即ち、所変の相を受けて、能変の意義を解釈しています。

 「所変の相というは、頌の「此」の言を釈す。此の見・相分の相状、各々無量なること有るが故に。・・・・・此の見・相分が所依の自体分の能変の識は、体類定んで三のみにして増減するに非ざるが故に。・・・・・」(『述記』)

 第一頌を見てみましょう。そこには、「種々の相転ずること有り、彼は識が所変に依る」と説かれています。識所変は能変に依るんだということです。

 では、初の異熟識を読みます。

 「一には謂く異熟。即ち第八識なり。多く異熟性なるが故に。」

 初能変の識を顕すと云う所になります。何故、初であるのかというと、根本識であることを顕しているからです。この第八識がなければ、他の二の能変は成り立たないのです。八識の土台になるような根本の識ということで、初能変と名づけられます。

 先程、異熟とは現行であるといいましたが、過去を背負って今存在しているということではないでしょうか。すぐ後に出てきますが、因能変・果能変という二つの能変です。過去を背負って、ということは第八識は、種子として蔵している、すべての出来事の集積が蓄積されているということです。そしてさまざまな縁に依って現行しているのが現存在であるということになるでしょう。時を異にして熟したのが今という時である。

 「多く」というのは、大きいという意味になるようです。異熟性が、今現在生きていることに、大きな意味をもっている。『述記』には、「此の識の体に総じて三位あり」と述べられてあります。

 この段階では略説としての異熟が説かれ、後に広く説かれます。概略としてみていきます。

 三位については、前にも論じていますが、異熟という所で生命を受けているのですね。善悪業果が果報として異熟です。善悪業を因として、その結果六趣の果報を受けているのですね。それがどこで受けているのかと云いますと、第八識で受けていると。「総報の果体」といわれています。総果ですね、これを「真異熟」といいます。因が変化し果が熟す、という意味と、時を異にして熟す、という意味ですが、もう一つ、異類而熟、類は性類のこと、性は三性です。異類は善悪、熟は無記です。ここは非常に大事なことが説かれています。因善悪・果無記ということで、阿頼耶識は無記性であるということ。阿頼耶識に、仏に転依することが出来る重要性が説かれているのです。

              (つづく)