唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (138) 開導依 その(43) 護法の正義を述べる(17) 

2011-07-25 22:00:25 | 心の構造について

P1000439_3                                                                                                          蓮の花も今が見頃でしょうか。少し遅いかもしれません。「咲くやこの花館」前の蓮の花です。昨日の夕刻に北東にある「北東池」に愛犬とともに散歩に出かけました。当然蓮の花は閉じていましたが多くの蕾を凛とさせ明日の開花を待っている様子でした。

                 P1000441_2 Hasu0721_3_3                  昨日と今日は「天神祭り」です。今日の本宮祭は船渡御と大川での天神祭り奉納花火がPM7.00~PM9.00に打ちあがりました。

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 唯識に学ぶ  ・  「第五に、これより以下は諸教と相違するという批判に答える。」

 「問、『解深密』(巻第一)等に五識は意の引に由ると、大論の第三(『瑜伽論』)に五識は意の尋求心を引いて生ぜしむとす。『仏地経』と『荘厳論』とには平等智の初めて起こるとき第八が初て浄を得る時とを説き、『摂論』(第三巻)には染汚に依ると、『対法』には悲願に依る等の如し。皆、諸識の互に相引て生ぜしむることを云う。此れ豈異類を依とすと教える文に非ずや。今何ぞ翻じて解するや。」(『述記』第五本・十八右) 

 護法の説に対する批判は、聖教を引いて論証するわけです。聖教は『解深密経』巻第一・『瑜伽論』巻第三及び巻第七十六・『仏地経論』・『荘厳論』・『世親摂論』・『無性摂論』・『雑集論』を引用し異類の識を以て開導依とすることができるという根拠を示し護法説は聖教に違背し誤りではないのか、という。この批判に答えて次のように云う。

 「然も聖教の中に、前の六識いい互に相引起こす、或いは第七・八は六・七に依って生ずと説けるは、皆、殊勝の増上縁に依って説けり、等無間には非ず、故に相違あらず。」(『論』第四・二十六右)

 (聖教の中には「前六識は互いに相い引き起こす」、或いは「第七識や第八識は第六識や第七識に依って生ずる」と説かれているのは、すべて殊勝の増上縁に依って説かれているのであって、等無間縁に依って説かれているのではない。そうであるから、護法の説く自類を以て開導依とするということは聖教に違背するものではない。)

 「述して曰く、此の前に引ける所は皆、殊勝なる増上縁の中に依って、相引生するをば名づけて無間とす、と説けり。実は是れ此の等無間縁には非ず。故に彼に違せず。」(『述記』第五本・十八右)