唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (123) 開導依 その(28) 護法の正義を述べる (2)

2011-07-06 22:03:29 | 心の構造について
 開導依の三義
 第一義は「有縁の法」であること。これは昨日説明をしました。
 第二義は「主となる」こと。
 「「主たり」というは即ち一切の心所法の等きを簡ぶ。彼は主に非ざるが故に、要ず主として力有るいい方に依とは為るべし。」(『述記』)
 心所法は主ではなく伴であるので所依とはならないという。主となるのは、所依となり、所依となる作用を有している法であることが定義になります。伴というのは心王が主であり、心王に対して伴であるということです。
 第三義は「能く等無間縁となる」こと。三点を以て説明されます。
 「「能く等無間縁と作るぞ」というは、
 (1) 異類の他識いい此の識が依と為るというを簡ぶ。
 (2) 或いは自類の識とも後の心が前の心の依と為らずという。
 (3) 或いは是れ心と倶時なりと雖も(相応の)心所が依と為すことを得ず。
 倶に開導に非ざるが故に。故に等無間縁といえるは即ち自類のみなり。」(『述記』)
 (1)は、異類の他識が自識の開導依とはならない。眼識の開導依は前念の眼識である、乃至。これは八識倶起・八識倶転を真実とするところから述べられています。 
 (2)は、自類の識であっても後念の自識が前念の自識の開導依とはならない。後念の自識という未だ生じていない法は依とはならないということ。
 (3)は、同時に存在する法同士には時間的前後がないために、同時に存在する法は依とならないということ。
 その二は、開導依の意味と名の由来
 「此れが後に生ずる心心所法に於て、開避し引導するを以て開導依と名く。此れは但心のみに属す、心所等には非ず。」(『論』第四・二十四右)
 (この後に生じる心・心所法に対し開避し引導することから開導依と名づけられる。これはただ心のみであり、心所等ではない。)
 「此れ」は前念の心王を指し、「後」は後念を指す。
 「述して曰く、前念の心王、此れが後の心及び心所法に於て、能く彼の路を開避し引導して生ぜしむる故に此の依と為る、此れは但、心にのみ属す、諸の心所と色と不相応とに非ず、皆力無きが故に。亦無為にも非ず。前後無きが故に。故に等と言う。此れは則ち第一に依の体と義を釈するなり。」(『述記』第五本・十二右)
 「前念の心王、此れが後の心及び心所法に於て、能く彼の路を開避し引導して生ぜしむる故に此の依と為る」が依の体を説明しており、「此れは但、心にのみ属す、諸の心所と色と不相応とに非ず、皆力無きが故に。亦無為にも非ず。前後無きが故に」が依の義を説明しています。
 開導依の体は心王、即ち識であり、心所等ではない、心王以外の法は開導依とはならないことを述べています。
 心所は主とならないので、開導依ではない。
 色法・不相応行法は引導する力がなく開導依とはならない。
 無為法も又後念を引く力が無い。そして無為は常住であるから前念・後念という時間的な前後がなく開導依の体とはならない。
 以上の理由から、護法は開導依となるのは但だ前滅の心王(識)のみであるという。一刹那前に滅した心を開導依と、そのことによって後念が引生されるのです。