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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

自己に背くもの』 安田理深述 (9) 謗法とは

2011-10-09 17:08:05 | 『自己に背くもの』 安田理深述

                  -  謗法とは  -

 「問曰。何等の相、是正法を誹謗するや。答曰。若し佛ましまさず、佛の法无し、菩薩无く、菩薩の法无しと言はむ。是の如き等の見、若しは心に自ら解し、若しは他に從ふて其の心を受て決定するを皆誹謗正法と名く。」(『浄土論註』真聖p309)

 誹謗正法とは何か。無仏無仏法、人法二に欠けている。法もなければ法を得た人もいない。菩薩は因から見れば、仏の因位である。これらの邪見を以て自ら解かり、また他人の邪見に従って斯く決めているものを皆正法を誹謗すると名づける。なぜ謗法を問うかというに次の問題を展開せんためである。

  問曰。是の如き等の計は但是れ己が事なり。衆生に於て何の苦惱有てか五逆の重罪に踰へたるや。答曰。若し諸佛・菩薩、世間・出世間の善道を説て衆生を敎化する者无くば、豈に仁・義・禮・智・信有ることを知むや。是の如き世間の一切の善法皆斷じ、出世間の一切の賢聖皆滅しなむ。汝但五逆罪の重たることを知りて五逆罪の正法无きより生ずることを知らず。是の故に正法を謗ずる人其の罪最も重し。

 謗法は個人的思想の問題である。法を否定するという思想であって個人的主観的問題でないのか。ところが 「衆生に於て何の苦悩があってか五逆重罪を踰えるか」 ということを出したかったのである。即ち五逆罪は個人的思想的問題でなく客観的問題であり、前者がそれを踰えるとはいかなる意であるかということである。ここに五逆は世間的な罪であり、謗法は出世間的な罪である。しかし五逆という具体的な罪は謗法を前提としている。故にこの問ではむしろ五逆罪は末であり、謗法罪こそ本であることをいわんとしているのである。例えば政治にしても現在の国難はどうかと、現在行われているマルクスの問題を仏法は何と答えるかと強烈に訴えて来ている。しかし直接に強烈に訴えてくるもの必ずしも深くはない。現実的に生に訴えてくるものは根源的なものではない。根源的なものは却って微かなものである。

 善導大師は抑止門において、もし謗法罪を犯したならば却ってまた摂取して生を得しむるが、、たとえ浄土に生まれても三種の障りありと。抑止は謗法を抑止するのみならず、多劫の障を抑止っすると、こういうことが続けていわれている。多劫の生とは化土の往生である。三種の障とは、仏を見ず、正法を聞き得ず、僧を供養することができぬ。大経のいう如く三宝見聞の益を失うと。又、如入三禅障ということがある。仏法に遇うことができぬという以外に真実の苦というものはない。またそれ以上の苦しみというものはない。三禅は一つの楽しみである。それは地獄で受ける苦よりも楽のようであるが、しかし真実には地獄の猛火に遇うということよりも三禅の楽しみこそ恐ろしいのである。そこではもう仏法に遇えない。三禅の楽しみということは自己陶酔に陥っていることである。独我論に入って何の苦もない。苦があれば何とかもがく。もがくところに救いとの機縁が動く。五逆罪を犯したものの倫理的矛盾に耐えられぬ。それが大道に導かれる機縁である。満足してしまったらもう仏法に遇えない。苦が無くなってしまえば浄土に眠ってしまう。そこに入ったら無有出離之縁である。浄土に閉じこもってしまうところには苦がないという罰がある。苦がないから眼を覚ます機縁がない。それを自性唯心という。

 これから押すと誹謗正法の問題が、更に一歩を徹底すれば仏智疑惑ということになると思う。化土の往生の罪は仏智疑惑の罪である。ご承知かと思うが、化土の往生は真実報土の外にあるのでなく、内に在ることで深刻である。浄土は本願の荘厳する世界であり、仏法の世界である。広大異門というか、その本願のなかに在って本願をみない。自分で妨げ制限して本願に逆っている。

 自性唯心は浄土の真証を貶すといわれている。本願のうちにありながら本願を否定している。広大無辺の世界のうちに小さく自己満足している。そういう仏法を私している罪を仏智疑惑という。誹謗正法というと積極的のようであり、疑惑というと消極的のようであるが謗法を抑止するのみならず、多劫の障りを抑止っする。ここに二十願というものが出てくる。そこに始めて善導大師の解釈を通して考えてみると、誹謗の根底には仏智疑惑ということがあるのではないかと思う。無明といわれているものがそこにあるのではないかと思う。五逆とはその反対を仁義礼智信とあるように倫理的罪悪であり、俗諦的罪悪である。

 疑惑というと真諦門的罪ということになる。こういう問題が考えられなくてはならぬ。疑惑と言うようなものは表面に出ているようなものではない。信じていると思っているところに疑惑がある。信じているということ自身が疑惑している。人がなぜといっても自分は斯く信ずるというのは疑惑である。体験主義の信仰というようなものは一つの疑惑である。無根の信というようなものは信ずる意識の信心でない。それは有根の信心である。迴向の信心とはそういう信ずる意識ではない。だから念仏疑惑の罪は表面に直接的に無媒体に裸の姿で出るものではない。これは天親の唯識教学でいえば末那識にあたると思う。信ずるということを、なお包むような疑惑である。あおういうものは真諦の世界に入って、仏法の世界に入って始めてしられる罪と思う。それまでは五逆の罪が出る。五逆というようなものはむしろ仏法の機縁となる。五逆の裏には疑惑の罪というものがあるのであるが、そういうものは表に出てこない。謗法とは仏法を信じたことによって出てくるようなものと思う。直接的な世間意識では真諦的第一義に対する疑惑というものは覆われている。却って念仏に遇うことによって出てくる罪というものと思う。つまり念仏の信心というものにおける矛盾である。念仏を信じているうちにあらわれる大きな矛盾である。いわゆる教行信証でいえば機法の矛盾である。自力は疑惑である。信ずると頑張ることが疑っている。念仏を力にすること自身が告白しているような罪である。五逆罪を犯したという犯罪のような意識でなく、念仏を信ずるというような形で暴露されているような罪である。これから押してゆくと、誹謗正法は仏智疑惑というようなことになると、自分の考えとしていっているが、多劫の障りということをみて間違いないことと思う。苦しみならまだよい。楽しみというところに救うべからざるものがある。謗法を五逆と比較してあるが、それは話にならないと思う。まあふつう五逆については懺悔、謗法については迴心、善導大師はそれに結んで謗法闡提迴心皆往といっておられる。五逆に対しては懺悔、迴心は第一義諦に対する懺悔と思う。宗教的懺悔とは何か悪いことをしたというような、何かやったことに対する懺悔ではない。自己の存在の懺悔である。自己の存在が懺悔される。過失に対する懺悔ではない。自己の存在自体が第一義に反逆的にある。自己の存在の根底に対する懺悔、それを宗教的懺悔という。第一義的懺悔とはそういうものである。懺悔は罪の帳消しではない。永遠に帳消し不可能である。改めのできるものではない。永遠に罪の帳消しが不可能であるというのが懺悔である。不可能と投げ出すより外にない。そういう性質のものである。善導大師と曇鸞大師とはいかにもその解釈が違うようであるが結局善導が摂取の悲心を抑止されたお気持ちは唯除というは 「重き罪を知らせんとなり」 であった。罪の重きを知らせんため唯除が設けられたということである。罪を救わんというのではない。つまり宗教においては五逆は恐るるに足らぬ。唯本願を疑うのが恐ろしいのである。その裏に善も頼むに足りぬが、悪も恐るるに足りぬ。恐るるは疑惑であり、本願に対する根源的罪である。疑惑が第一義の罪だ、とくいうことに帰着する。

                          次回は 「唯除の自覚」 をお送りします。


自己に背くもの』 安田理深述 (8) 救いの断絶 (2)

2011-10-02 15:53:28 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「世尊、若し我審に能く衆生の諸の悪心を破壊せば、我をして常に阿鼻地獄に在りて無量劫の中に諸の衆生の為に大苦悩を受けしむとも、以て苦と為さずと」(『信文類』真聖p265)

 今まで地獄を恐れていた阿闍世がこの無根の信に目覚めるや、もし衆生の苦のためならば喜んで地獄を引き受けるということに変わってくる。地獄に堕ちる不安が縁となった阿闍世が自ら進んで地獄の苦を引き受けるということを語っている。それが親鸞聖人の地獄一定すみかぞかしである。聖人は地獄を逃げているのではない。地獄を恐怖するところに宗教はない。その地獄が恐ろしいというところに出発するのが新興宗教であるが、そこには人間の底がつきぬかれていない。地獄に堕ちたくないところから出発する未来往生は、結局現在の欲望を未来にまで延長したものである。そういうものは宗教でも仏教でもない。それは浄土は楽しいところと聞いて仏法を求めるものである。先ず仏法は一切を引受けとというところに立場をおいている。そうでないと人間の罪悪感を恐れるというようなものにすぎぬ。人間の罪悪というものを恐れるというようなところに仏法はない。あのような悪い人間だとは思わなかったというようなところに仏法はない。どんなことが起きても恐れぬ。誘惑するものが悪いというが、誘惑され得るところにおるから誘惑されるのである。誘惑するものを恐れぬ。そういうところにおらないのは信心がないからである。信心は倫理意識を最も徹底させたものである。今の真宗は倫理意識を麻痺させてしまった。倫理意識をごまかすことにかかってきたといってよい。物法を否定するものが仏法を求めるということはない。そのようなことは架空な願いであryが、そのようなものが多いのである。全部人間の心で仏法を求めている。助けて欲しいと安楽を求めて仏法を聞きにくる。そういうことが可能だという願成就の文の証拠はない。あたかもそれは水でない氷や煙のない火を求めようとするようなものである。自己矛盾をでない。

 曇鸞大師にとってみれば、往生できるかできないかを決定するものは五逆罪というようなものではなく、謗法罪であるということを教証と道理を以て明らかにせんとしていられる。故に曇鸞大師は断乎たる言葉を以て謗法罪を犯したものは浄土に生まれるを得ずと断案を下しておられる。善導大師の解釈は、摂取と抑止の二門を立て、本願の除くというご精神を明らかにされている。曇鸞大師の否定の精神の内面を明らかにされたのである。抑止とは何か罪悪を抑止する、罪を作るのを止める。また大経の方ではまだ罪を犯しておらぬというところから未造業、観経では既に犯しているところから已造業といい、大経では作ることはならぬものと抑止し、観経では既に作ったものは放っておくことが出来ぬと摂取する。衆生をして阿鼻地獄の苦をなからしめんとの大悲と、大悲を抑止する、そういう意味を丹山師がいっておられる。大悲を止めて往生はできぬぞと抑止される。善導大師にくると曇鸞大師とは大分解釈の趣きが違うようである。

                  次回は 「謗法とは」 です。


自己に背くもの』 安田理深述 (7) 救いの断絶 (1)

2011-09-25 12:57:26 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 三願転入において親鸞は、二十願の機にあっては念仏しながら本願を疑惑する。それについてこういう悲嘆を述べてある。

 悲哉垢障凡愚、自従無際已来、助正間雑定散心雑故出離無其期 自度流転輪廻 超過微塵劫 叵帰仏願力 叵入大信海 良可悲嘆

 (「悲しきかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。自ら流転輪回を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」 化身土文類・本、真聖p356)

 実に痛切を極めた悲嘆であり、懺悔である。この二十願にひびいているものこそ意義深いものである。親鸞聖人が機の問題を二十願の自覚即三願転入を以て解釈しておられることが解ると思う。龍樹菩薩にあっては、堕地獄は菩薩にとって必ずしも苦しみではない。二乗におちいることがその死であり、致命傷であるといっておられる。出離その期なしとは、致命傷であることを明らかにしておる。そこに教証を挙げて、たとえ五逆の人には救いの縁はある。地獄に堕ちてもまだ手がかりがあるが、しかし謗法になると手がかりというものがない。更にこの謗法の罪を道理を以て次にあらわしている。

 又正法者仏法 此愚痴人既生誹謗 安有願生仏土之理 仮使但貪彼生安楽而願生者 亦如求非水之氷無烟之火 崇有得理

 (「また正法はすなわちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず。いずくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たといただかの安楽に生まるることを貪して生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし、あに得る理あらんや。」(信文類、真聖p273)

 既に仏法を誹謗しているものが仏法を聞こうとしていることは明らかな矛盾である。本願を踏みにじっているものが本願に救われようというている。それでも更にそれを一応許そう。本願を踏みにじっていてもなお仏法を聞こうという願だけは許そう。認めよう。たといその願を起こしたとしても往生を得るということはできぬではないか。仏法を求めるに非仏法的動機で求めるものがいる。仏法は仏法の心でないと求められぬ。人間の心は仏法を求めることはできぬ。仮令(たとい)といってあるが、大部分がそれである。人間の欲望を以て仏法を求めている。人間的な欲望を以て仏法を求むるも、与えられるという必然性はない。全く偶然的に何か人間的欲望が否定されて、そこにはかならず仏法に遇うということはあっても仏法を得るの必然的証明がない。われわれは安楽浄土を聞いて願生する。そういう願生から往生の確証をにぎる必然性がないではないか。曇鸞大師ご自身がこういう問題を持っておられた。これは曇鸞大師ご自身の自己批判である。親鸞聖人も自己自身の上にこれを読まれた。浄土を求めるといいつつ現世の幸福から一歩もでない。これは余談にわたるが、今日仏法がふるわない。ふるわぬ証拠が一つある。それは現生というものと離れたところにある。何も親鸞の教えが時代おくれだからというわけではない。にもかかわらず一向に人間の眼でみると判らぬが、歴史的社会的力を持たぬ、リアルになっておらぬ。今日仏法は一つの教理になってしまっているところに現実、現在、現行、即ち現というものを離れている。今日雨後の筍の如く新興宗教が勃興し、それらは一貫して現在の利益というものを掲げている。ところが真宗の教えは現在を離れている。現実生活を遊離している。新しい生活がそこに創られてゆく、それが本来の仏法である。それが単なる教理になっている。生きた歴史的社会的現実生活のうちにない。龍宮に入ってしまっている。私が思うにはそれはそうとしておいて、日本に世界的宗教といわれ得るものは、キリスト教はそれと一応認知するが、それと合せて仏法も世界的宗教であることをキリスト教徒も暗黙のうちに承認していると思う。真に危機に立つものは仏法であると思う。いかにキリスト教といえども、親鸞の教学を大本教などと一緒にしてみているわけのものではないと思う。キリスト教は簡単にいえば、どこか人間の否定、人間否定というところに一点にかかわっている。更にキリスト教と仏教とは人間に対する絶対批判というものが一貫している。そういうところに仏教というものが、そのままの相を以てしては民衆に橋渡しができないものがある。親鸞の教行信証に触れれば人間はそこで絶望しなければならぬ。人を救ってくれるという仏法が蓋を開けば救いのないことを語っている。日本人のような功利主義者、現世主義者のなかに親鸞聖人を生んだということは鳶の子が鷹であったことになる。日本人が親鸞聖人をもったということは実に驚嘆すべきことである。それは世界的なできごとである。こういうことはいくら気焔をあげてみてもあまりひびいてこないかもしれぬが、ふつう親鸞聖人といえば坊さんのもののように思っているが、事実は世界的意義において生きていられるのである。親鸞には人間に対する一点の妥協がない。甘さというものがない。くもりがない。真に親鸞を生かしているものは底なき深い懺悔である。そういうものが教行信証の教学というものえお生み出している基底である。自己存在の根源的懺悔である。そこに永遠に現実肯定の宗教から一線を劃している。今日の新興宗教というようなものは総じていえば地獄からの恐ろしい宗教である。人間欲望の延長である。地獄の恐ろしいところから出発している宗教である。

 地獄の恐ろしいところに宗教はない。私が面白いと思うことは観経に五逆を説いている。それを親鸞聖人は涅槃経を以て明らかにされている。そこに五逆も謗法も闡提もそろっている。観経はもっぱら韋提希夫人について述べられてあるが、韋提希は凡夫人であるがそのなかの善人である。涅槃経では同じ凡夫人であるがその子阿闍世という悪人が出ている。提婆も出ているが、そこでは阿闍世の廻心、阿闍世の信仰告白の記録というもんが出ている。その相当に長い阿闍世の信仰記録を教行信証に引用になっている。そこには阿闍世が五逆罪を犯した呵責のために堕地獄の不安におののくところの相が躍動している。犯罪者の心理が描写されている。この阿闍世の物語は五逆罪を犯した罪をば六師外道がそれぞれの教説に立って弁明し、阿闍世を苦悶より解放しようとするが、しかし彼等が弁解しようとすればするほど、逆に罪を犯したということがはっきりしてくる。いよいよ打ち消すことができない。その阿闍世の心を抜きがたくきりもむ苦悶が説かれているが、ここでいいたいことは阿闍世が釈尊の教化に救われ廻心して述べている言葉である。

 「(王、仏に白さく)世尊、我世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。我今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。「伊蘭子」は、我が身これなり。「栴檀樹」は、すなわちこれ我が心、無根の信なり。・・・・・・」(『信文類』真聖p265)

 伊蘭とは非常に悪臭を放つので嫌われている草である。その伊蘭のなかから芳香を放つ栴檀樹が生じたということは、いまだかってないことである。「伊蘭子とは我身是なり」 人に憎まれ全世界から嫌われていた伊蘭から栴檀が生じた。生ずべからざるものが生じたのである。根のない信、無根の信、他力廻向の信、この伊蘭の身から信の一念が栴檀樹のように生まれた。全く奇跡的事件である。      (つづく) 次回は「救いの断絶」後半です。

 


『自己に背くもの』 安田理深述 (6) 謗法と五逆

2011-09-18 13:02:18 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 唯除五逆誹謗正法と大経に出ている。それで観経には十悪五逆具諸不善も亦往生を得、とあるが、この二つをいかにするか。観経では五逆の罪人、それがこの念仏によって往生する、助けられるということが述べてある。ところが大経では唯除五逆と出ている。そこに矛盾がある。これは一体どうしたわけかと新たな問題を提起してある。それが四つの問題を挙げてある。なるほど大経を見てみると、ただ本願成就文の上にあるばかりでなく、第十八願の因位の本願にも唯除五逆誹謗正法といってある。これは一つの大きな問題である。実は曇鸞大師が提起された問題は論註だけで終わらず、善導大師にきてもこの問題が継承されておる。更にまた教行信証にくるとこれらお二人の解釈が併せられている。ここに大経では五逆罪と謗法罪とを合わせてそれを犯したものは助からぬという。観経では五逆罪を犯したものは助かるといってあるが、謗法罪を犯したもののみ助かるということが出ていない。親鸞聖人はこのところに涅槃経を引いて、そこに出ている一闡提というものを出していられる。一闡提と謗法罪と五逆罪とかとこういうぐあいに出ている。これは親鸞聖人が涅槃経を以て広く難治の三機ということをいっておられる。ここに唯除の機は曇鸞・善導・親鸞と次第する歴史的な問題が提出されたのである。実にこの十方衆生と呼びかけた本願がそこに五逆罪と謗法罪とを除くといい、一切衆生悉有仏性を説いた涅槃経が闡提を語らねばならなかったというところに問題がひそんでいる。一応闡提ということは謗法罪に属すると思えるが、五逆罪というのは世間的倫理的罪悪というものであろう。それに対して謗法はそれを深く徹底すれば、正法を否定する、仏道に反逆する。ということを更に押せば本願の疑惑ということになる。それに対し闡提というものはどういったらよいか。五逆罪というときには何か縁に触れて犯したということになるが、闡提というときには全く宗教心を起こすという可能性が全然失われておる。涅槃経を読めば、一度焼けた種子は再び芽を出すことはないだろう。一遍死ねば再び生きかえらぬ。全く絶望的危機というものを意味するものと思う。謗法というとそこにまだ意識的に反抗するというものがあるが、闡提となると意識的に仏法を否定するというのではなく、無意識的に仏法を否定しているという状態でないかと思う。こういうことを通して親鸞は悪人正機の問題を明らかにしている。その悪人正機に一番先に触れたのが曇鸞大師だと思う。これは大体からいえば、機の問題ということになる。大体論註は法というものが中心となっている。浄土論自体が法の問題を主題としている。機の問題も大切であるが、法の真実を明らかにするのが論註の立場である。その法の問題が機というものによって端緒がつけられた。歴史を通して明らかになる問題に端緒がつけられた。兎に角ここに始めて機の問題についての端緒があるということでないかと思う。それ故親鸞の教行信証を見てみると、これから以後全部の文を引用しておられる。読んでみよう。

 (『論の註』に曰わく、)問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者みな往生を得しむ。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に、「五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得」と言えり。この二経云何が会せんや。答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するをもってなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもってのゆえに、このゆえに往生を得ず。一経はただ、十悪・五逆等の罪を作ると言うて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗せざるをもってのゆえに、このゆえに生を得しむ、と。 問曰・・・・・・・・答曰・・・・・・・・(「真聖」p272・信文類)

 そこに二種の経典の問題がある。大経には五逆罪と謗法罪との二種の重罪を具する故に唯除くという。観経では五逆罪を犯したものもまた十念念仏によって助けられる。五逆罪が許されるのは謗法罪がないからであると。ここに一応は謗法罪を具するか具しないかによって解釈される。がしかしそれだけでははっきりしないものが残されている。それから次第に歩を進めておられる。観経には謗法罪がないから五逆罪は許されてある。それならばたとえ五逆罪を犯しても謗法罪がなければ許すというが、それならばその逆はどうであるかと、謗法は犯しても五逆罪は犯さなかったならばどうであるかと。そう尋ねてこないと五逆罪を具する具さないの量的な問題に終わってしまう。そこでまだ質的な問題が残されている。故に謗法罪だけ犯したのみでも許されないのかと問いを進めている。しかしそれはもうだめである。謗法罪を犯せばそれだけでもう絶対不可能だという。ここに罪は量の問題から質の問題に転じている。観経では誹謗正法がないから許される。ここに問題は謗法があるかないあkというところに救われるか救われないかの運命が決する。

 『経』(大品般若経信毀品意)に言わく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して、具に一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は、阿鼻大地獄の中に堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。かくのごとく展転して、百千の阿鼻大地獄を径。」仏出ずることを得る時節を記したまわず、誹謗正法の罪極重なるをもってのゆえなり。(真聖p273・信文類)

 ここに五逆罪を犯したものは一劫の重罪を受けると限っているが、謗法罪を犯したものは永遠に阿鼻地獄を反覆展転し、遂にその窮まりのないことを教証してある。即ち経典を以て証明してある。ここに出離の縁あることなしという機法二種の言葉を思う。更に機の自覚としての三願転入の問題がある。

                         次回は 「救いの断絶」 です。


自己に背くもの』 安田理深述 (5) 願生の機

2011-09-11 07:42:35 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「何等の衆生とともに」 というのは経典の解釈ではない。そこに何かをおさえているものがある。何か一点でも気にかけているものがあったら判決されている。それで更に曇鸞大師は観経を引いておられる。本願成就の分だけ引いておられるならば解るが、もう一つ観経を引いてある。そこでは 「不善業たる五逆十悪をつくり、諸の不善を具せん」 といい、これは凡夫ということではなく悪人ということである。下々品は全く間に合わぬ状態である。聞法させるとか納得させるとかいうことが絶望的である。全く手のつけようのない臨終の場合を例に挙げていってある。悪人が臨終において善知識に来てもらっても、もうなにもかもだめである。もう南無阿弥陀仏と称名の具足十念に往生する以外にない。われわれの人間能力に絶望したこういうときでないと帰することのできぬ本願である。絶望し切ることのできるものは天才だけである。われわれにはこういう自覚はできぬ。全く非常の場合を例に出して願生の機を明らかにしている。ここに観経の言葉を押さえて 「此の経を以て証するに明らかに知んぬ。下品の凡夫・・・・・皆往生を得せしむ」 と断言してある。凡夫の中にも善人悪人がある。だから観経を引いて更に一切の悪を具えている。しかし謗法はない。法を聞かせてくれといっている。だから大経では凡夫ということが明らかになっているが、観経では更に悪人、最下級の凡夫であるという。こういう必堕地獄の凡夫、五逆罪を犯したら本願に遇うても取り消しがつかぬ、全く地獄一定に定まった凡夫である。臨終という非常の時期を出してくるのは、それにおいていつでもというときをあらわしている。臨終でないと助からないということではない。それによっていつでも助かる道が開けてくる。最後は誰でも彼も同じである。最後には絶叫のみがある。人間現実の暴露である。観経にくると凡夫の自覚にぞっとするものが出てくる。必定地獄の醜体を暴露してくる。その地獄一定の機が往生一定の鍵をにぎる。往生必定の鍵をにぎるものは地獄一定の凡夫であるということを明かしたのである。その衆生の上に本願が等流する。

 下品凡夫但令不誹謗正法信仏因縁皆得往生(下品の凡夫但正法を誹謗せざれば信仏の因縁をして皆往生を得せしむ)

 正法を誹謗せずというところに信仏の因縁と出ている。これは論註の始めに龍樹の十住毘婆沙論を引いて難易二道を説いて、易行道とは但信仏の因縁をもって浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗じて往生を得、とあるところに対応して、ここに他力易往ということが信仏の因縁なることを明らかにされたのである。難易というが、なぜ易行であるかということは、龍樹は明らかにしていない。自力というところに難行、他力というところに易行ということが成り立つのである。易行ということを定義して 「信仏の因縁をもって浄土に生ぜんと願ずれば、彼仏願力に乗じて皆往生を得」 といっていられる。信仏の因縁ということが論註では大事である。他力易行は信仏の因縁だというのである。

 第一の問答は一応曇鸞が浄土の機をおさえてそれを定義し解釈しておられる。大無量寿経の本願成就文と観無量寿経の下々品を通して、煩悩成就の凡夫、罪悪深重の衆生が浄土の機であるとし、天親菩薩はそれらの衆生を代表して、その立場に立って即ち悪人凡夫を代表して、願生を述べられたのであると判じられたのである。

 前に述べて来たことを要約すれば、天親菩薩が願生偈の終わりを結んで 「普共諸衆生 往生安楽国」 といわれたその衆生というものをおさえて、曇鸞大師は第一の問答を提起された。それは大無量寿経の本願成就文と観無量寿経下々品のお言葉を以て、浄土の機というもの、浄土論の願生の機というものは、罪業の機であるということを明らかにせられたのである。天親菩薩が願生といわれるのは、罪悪深重の衆生というところに自己の立場をおいて、その自覚に立って浄土論の信仰告白が述べられたということがあきらかになった。以上のことを申して来たのである。これで一応問題は終わっている。ところが新たに問題が起こってきた。そこに第二の問答が提起される。

   つづく 次回は 「謗法と五逆」 についてです。


『自己に背くもの』 安田理深述 (4) 凡夫の自覚

2011-09-04 16:03:58 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 「諸有ということは、有とは仏法ではただ有るということではなくて、善導大師が横超断四流といわれたのを親鸞が解釈されて、三有生死と断絶するといってられる。生死的存在のことを有という。苦悩の有情ー宿業を負うて存在する、現実的存在、人間的存在、諸有の衆生、こういうことである。これは面白いことである。こういう問題は論註の上巻にしても下巻にしても、また信巻のところにも三心一心の問答として提出しておられるが、こういうものがある。本願の問題から至信信楽欲生の三信を通して解釈されているが、そのとき善導大師の三心釈を通して解釈してあるが、そこに三心釈の文にあわせて序文義の語を引いてある。

 云く、この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、未だ無き者有らず、常に之に逼悩す。若し此の苦を受けざるものは、即ち凡数の摂に非ざるなり、と。(真聖p214)

 苦を受けるというところに凡夫は属している。苦のないものは凡夫ではない。苦のないものは阿弥陀仏の本願に用はないと、文を引いてだめを押してある。凡とは凡夫で如来の救いなくしてはどうにもならぬものであり、苦しまぬものは凡夫ではないといわれている。つまりわれわれが朝から晩までひとこtでも不平や不満や不足があるならば ー 何か気にかかることがるならば ー 即ち、ちょっとでも意識の上に暗い影がさすならば凡夫であると、善導大師はおさえていってある。

 諸有の衆生というとき始めて諸の衆の 「有」 というところに衆生の生というものがある。浄土論でも願生安楽国といって生ということが非常に大事なことである。生というところに一つの自覚がある。即ち衆生というのは一つの自覚だと思う。本願とか浄土とかいってもそういうものがぶらついてあるわけのものではなく、諸有衆生の自覚のところにある。衆生といった自己の自覚としてそういうものが開けてくる。衆生の生というものは無限に深いものである。三有苦悩の衆生というのが一番始めである。苦悩の衆生という自覚、仏教とはそういうものである。仏教というものは最も直接に衆生が衆生としての自覚を得る。衆生が衆生としての自覚を掘り下げる。それを外にして仏教というものはない。本願というもそれを離れてはない。三有生死の衆生は宿業を負うて苦悩している。宿業というも自覚である。宿業というのは三世因果の道理とかいっているものではない。宿業を語っても自覚を離れると運命論になり、宿命論におちいる。それは仏法でもなんでもなく、外道である。自己が生きているという責任の自覚を宿業という故に、経に 「聞其名号信心歓喜」 とあるのを親鸞は教行信証に 「聞というは衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」 といっていられるが、それを大抵は衆生というものを忘れて読んでいる。聞というは仏願の生起本末を聞きてと、衆生を抜かして読んでいる。衆生という自覚のところに聞と言うものがある。ほんとうにわれわれが苦悩の衆生となるときは、われわれの全身が耳となってくる。われわれの全存在が本願を聞く耳となる。われわれの全存在を以て門をたたく。そこに 「衆生仏願の生起本末を聞きて」 ということがある。

 ここに本願成就文は重要ではあるが、今特に必要はない。後の即得往生住不退転ということもまた意義をもっているが、さしあたり諸有衆生ということが大事である。この本願成就文の言葉によって考えてみると、次にこれを受けて、 案此 という言葉は歎異抄の 「よくよく案ずれば」 のお言葉もここから出ているのかもしれぬ。また 「謹案浄土真宗」 の教行信証のお言葉もそうかもしれぬ。これから静かに考えてみると 「一切外道凡夫人皆得往生」 というのは、外の意味かどういうものか解らぬが、内凡外凡ということがる。内凡というのは聖者賢者というときの賢者をいう。賢者は凡夫である。聖者というとき初歓喜地を証した者をいう。これで一応は論の機というものが凡夫であるということがはっきりしてきた。つまり天親菩薩が願生といわれるときは、瑜伽唯識を製作されるときと違って、凡夫というところに立っていられる。 「共に」 とは何等の衆生と共にという。共には代表して、われ衆生と共に、凡夫を代表して我という。願生道は凡夫という自覚に立って、即ち願生は機の自覚が凡夫というところにある。凡夫というと私はだめであるというが、あれは凡夫の自覚でも何でもない。凡夫だからというのは、われわれは凡夫という概念にしているにすぎぬ。故に凡夫だからだめというのは自己弁護である。自己の現実の生活を弁護するにすぎぬ。凡夫という自覚のところには起ちあがる。凡夫というところに 「たとひ大千世界に満てらん火をも過ぎゆきて」 ということがある。天親菩薩は凡夫の立場に立たれた。それから五念門を述べられたが、その五念門を親鸞は法蔵菩薩の修業であるというていられる。そうすれば四十八願も法蔵菩薩が凡夫の立場に立って自分の上に四十八願を見出された。ここに法蔵菩薩は凡夫の第一の先覚者といわねばならぬ。われわれは凡夫でも聖者でもないところにいる。どこにもおらぬ。借金もあるし、税金にも責められるし、それにまぎれて全くそこに何もない。

               (つづく 次回は 「願生の機」)

 


『自己に背くもの』 安田理深述 (3)  本願成就

2011-08-28 19:31:38 | 『自己に背くもの』 安田理深述

    - 『自己に背くもの』 -

     八番問答講和  安田理深述 (3)

 「本願成就」

  答曰案王舎城所説「無量寿経」。「仏告阿難。十方恒沙諸仏如来。皆共称嘆無量寿仏威神功徳不可思議。諸有衆生其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法」

 (答えて曰く、王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、「仏阿難に告げたまわく、十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを称嘆したまう。諸有の衆生、其の名号を聞て、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまえり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せんと、唯五逆と正法を誹謗するをば除くと。)

 と引用してある。これはまあ教行信証をみているとか、法門にいる人にはこの言葉は大無量寿経においていかに重要であるかが判っているけれども、門外にいる人はそうは思わないかもしれないので、どうも面倒なことである。近代人のわれわれは直接経典を見るというようなことはできないのである。歴史を離れてあるものならばとも角、その歴史というものを離れて大無量寿経というものはない。経典は自己の歴史をもっている。歴史を離れて経典というもそれは生命を持たぬ。この語は大経下巻の始めに出る第十八願成就の言葉である。ところが第十八願の言葉は諸有衆生からであるが、その前は第十七願成就の言葉である。これはなかなかやかましいところであるが、ここは第十七願にはさして重要な意義というものはないと思う。そのわけはよく文章を見ると十七願の成就は、句を分ければ十七願成就の文と十八願成就の文と分けれ必要かもしれぬが、生きた文章として見るとき、それと十八願成就の文とははなれたものではない。事実からいってもそうである。因位の本願からは十七・十八願を区別しても、成就するところに即ち信仰体験の上ではばらばらであるわけのものではない。成就は体験であり、体験の上では事実として一つである。

 その因位の本願の上では第十七・第十八の願はそれぞれに独自の原理、意義を持っている。成就では一つ、第二十願をも加えて三願の成就が一つになっている。そういうことは意義の深いことである。しかしここで十七願の成就文が曇鸞の引用中に出ているが、その十七願の意義を始めて明らかにされたのが教行信証である。十八願、二十願、十二願、十三願の大事なことは曇鸞大師を通して見出されていたのであるが、なお十七願の意義は見出されておらぬ。十七願の文章はあってもその意義は見出されておらない。それは頭が悪いというわけではなく時機純熟しないからである。時機が到来しない。その十七願の意義を明かす時機が親鸞において来た。十七願の意義は教行信証の意義の半分を尽くすというも過言ではない。十七願はみたところ、一向に大した願と見えず、何か諸仏がオーケストラをやっているようであり、一向捕らえようのない願である。第十七願は第十八願を讃える補助的願、即ち独自性を持たない願のようである。教行信証に来て始めて十七願は大行の願として、念仏というものを自ら称えしめる原理として、十八願を十方世界に行ぜしめる願という意義を見出して来たのである。かかる実践の行であり、そこに重誓の偈、本願を本願する誓いを十七願の上に見出して来た。本願の念仏は十七願の上に成立する。十七願の意義はどうしても親鸞の教行信証をまたねばならぬ。ここでは十七願の意義ということはいらないと思うのでああるが、ここに諸有衆生聞其名号信心歓喜の「其の」とは前にいってあることを指す代名詞であり、上に出る十七願成就を受けているのである。十七願というものを出さなければ、其のということが判らない。直接には十七願成就文は必要ではないが、必要なのは十八願成就文であるが、それは十七願成就文から不可分に続いている。しかしさしあたりここで必要なのは

 諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至 心回向願生彼国即得往生住不退転唯除五 逆誹謗正法

 という本願成就の言葉であるといわれている。

 大無量寿経は四十八願を説かれた経である。そして単に如来の本願を説いた経であるばかりでなく、その本願の成就を説いてある。もしそうでなければ物語を説いているにすぎない。だから大無量寿経のなかに大無量寿経によって救われた体験があわせて述べられてある。大無量寿経は阿弥陀仏の本願に救われた人がその救いの体験を通して、その救われた体験に即して救いたまう本願を説いた。これが大無量寿経というものである。その因願のなかには十方衆生というたある。それは十方衆生、ただ十方衆生といってあるが、それは誰だか判らない。本願はそれだけであるが、主観的なもの、観念で終わってしまう。それが本願成就文のところでは諸有衆生となっている。法は機をまたぬとただ観念的な存在として終わってしまう。やるせない本願としてあるものである。機をまって始めて本願が行となる。生活となる。行というものが生きている証拠である。救われたか救われぬかの証拠は行である。行があるかないか、行がないと安心も成り立たぬ。行が願である。願というところでは非常に深いが微かなもの、願が行というところに力となる。現実のわれわれの上に願というときはわれわれを離れる。それがわれわれの上に成就する。それを行という。本願が空中に成就するということはない。本願がわれわれの上に成就してわれわれを転廻する。本願がわれわれの上に来ってわれわれを招喚し摂取する。変革する。そこに歴史的、運動というものがある。因位の本願では十方衆生といってあり、成就の文では諸有衆生といってある。十方の衆生ではただの衆生ということと同じであるが、それが機というものをおさえてくるところに諸有衆生と具体化されて来たのである。

       次回は9月4日・「凡夫の自覚」を配信します。

        ー 雑感 ー   

 『解深密経の会』の講義録が松村さんから送信されてきました。私は今、心の状態が不安定で、不安の中で揺り動いているわけです。その不安をなんとか理屈をつけて自分を納得させようとしています。自分の思いに合わせようと努力をしているわけです。自分を善として他を裁く場所に居座っているのです。「何故だ」というわけです。自分の行為を棚に上げてですね、他を非難している自分が「何故こんなに苦しまなければならないのか」と。こんな思いを抱きながら高柳師の講義に眼を通していました。第三回目の講義の中で「善人の世の中というものは厳しいですね。失敗したものを許さない。犯罪者を許さない。罪人を許さないのです。」という文章に出遇いました。有る意味私は犯罪者です。法を犯したわけではありませんが、かけがいのない家族を地獄の底に突き落としました、それも無慙愧のままでです。それを許してくれとはいえませんが、本当にかけがえのないものを見捨てた罪は重いものです。一度ならずともです。一度ならずともというのは、20歳の折に縁あって得度をしましたが2年余りで還俗を余儀なくされました。余儀なくされたというより、自分の身を守るため、護身のために家に戻ったということです。この時は家に戻ったということで家からは何のお咎めも無かったのですが、二回目の事業失敗の時には二度と家の敷居はまたぐなと勘当を言い渡されました。41歳の時です。世の中は紆余曲折の有る人物は好まないのですね。まともに生きることを許してくれません。有る意味危険人物ですから地下に潜って生活することを余儀なくされるのです。しかしですね。やはり陽のあたる場所で生活したいわけですよ。そして自己破産というですね、一度人生をリセットさせていただいて、同じ過ちを繰り返さないと誓うわけですが、今度は自分の思惑と裏腹に追い込まれて来て、同じ過ちを繰り返し、また家族を裏切ろうとしているわけです。自分の持っているもの、執着ですね。捨てられないのですね。生のみの生活が破綻しているのにもかかわらずです。生のみの生活で誤魔化して生きていられる間はいいですよ。誤魔化して生きているということは苦を伴うわけです。いつ死するかわからない、その死を永遠の彼方に追いやって今を生きようとするわけですから生と死の矛盾の中で無意識で葛藤をしなければならないのです。その結果、生きたい思いが破綻したとき自ら生命を落とすことになります。そうではないんだと、死と倶にある命なんだと。死は無一物です。世の中の価値観が全く通用する場ではないですね。それは無一物になって生きよという如来の大悲がふりそそいでいる真っ只中に私はいるということに他なりません。そのね、私の中で捨てられんというという執着です。これが問題なわけです。執着は如来の催促です。執着を知らしめることを縁としておおいなる大地を開いているのですね。この世界を邪魔しているのが世間の中で自分を大きく見せたいと思う執着です。ですから、家の中にあっては良き父親であり、良き伴侶であり、勤務先では有能な人材で有り続けたいのですね。また勤務先もそれを要求してきますからね。マイナスの人材は不必要なのです。人間性ではなく、仕事が出来るか否かです。

 日本の自殺者の現況は13年連続で3万人を突破しているようです。そして自殺未遂者は自殺者の10倍以上いると推定されるそうです。残こされた遺族は300万人いると推定されるという統計がだされています。その理由が健康問題が一番多く、次いで経済・生活問題であり、自殺者遺族の4人に一人が自分も死にたいと考えているいう報告がなされています。そして近年は二番目の経済・生活問題による中高年の自殺者の急増があげられています。

 私たちが生活する上で、社会には必ず弱者を生んでいかざるを得ない構造があるわけです。弱者を生んでそれを放置するということは本来あってはならないのですが「善人の世の中」は弱者は負け組みとして見捨てるような構造になっていますね。社会を客観的にみますと三界といわれる世界は虚偽の世界ですね。しかしその三界を構成しているのは私自身です。「私さえよければそれでよし」という価値判断が生み出す世界です。

 ですから私を苦しめるものは私なんですね。弱者だから、犯罪者だから許してくれる社会構造はどこにもありませんね。生死の問題を抜いてしまいますと、社会構造はこうなるより仕方ないのです。生の謳歌は生を妨げる何者も許すことは有りませんからね。ですから私たちの行き先はどこまでも便利で暮らしやすい生活を追及し、死を永遠の彼方に追いやるより仕方ないのでしょう。

 私の不安も苦しみも私のエゴから出発しているのですが、講義の中でグサッと突き刺さった言葉に出遇いました。

 「鳥でさえあないして雨でボトボトになっても子供を育てとるのに、うちの娘は子供をほっといてどっかに生きよって」と思われたそうです。そしたら、私の中から「あんたも子供棄てたがな」と聞こえたそうです。」という話なのですが、この北野さんは自分に出遇われて自分の執着を翻えされて無一物の世界に触れられたのでしょうね。

 そこでね。私には私に出遇えない私が存在するのです。いつまでもがき続けるのかわかりませんが、死を彼方に追いやることは生を誤魔化して生きているということには気づかされました。有る意味仕事が忙しいということも死という問題を先送りにして今を問題にしていない証拠となります。不安で苦しくて悶々としているわけですから、何かに打ち込んでいると忘れられるわけです。天界に遊んでいる間は意識がないわけですから忘れることができるのです。しかし死という問題が差し迫ってきますと、天界に遊ぶことを許してはもらえません。どうするのかですね。「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。」という三定死の真っ只中にあって「一種として死を勉れざれば、我寧くこの道を尋ねて前に向こうて去かん。すでにこの道あり。必ず度すべし、と」という声が聞こえるのかどうかが問われています。

 


『自己に背くもの』 安田理深述 (2) 転回点

2011-08-21 10:23:08 | 『自己に背くもの』 安田理深述

      - 『自己に背くもの』 -

             八番問答講和  安田理深述 

 (2) 転回点 その(2)

 つまり浄土論は天親菩薩の安心を表白さたのであるが、願生偈は普共諸衆生といっている。天親菩薩が浄土論を述べた立場はどこにあるか。即ち天親菩薩が願生といわれたときにはどういうところに自己を置かれたかということである。そういうことを問うのである。更に押してゆけば浄土の機というもの、阿弥陀仏の本願の正機とは何であるか。こういう問題である。これは論の上では明瞭でないが、曇鸞大師におさえられて始めて明らかにされるのである。誰でも願生偈を読んで・・・・・・まあ論より証拠、普共諸衆生 往生安楽国 とすらすら読んで何にもひっかからぬ。曇鸞大師はそこに足をとどめられた。衆生というところにひっかかった。ものにひっかかるということは読む人に問題があるからである。ひっかからないのはその人に問題がないからである。もし衆生ということを明らかにしなければ曇鸞大師と浄土論との関係がない。自分にとって浄土論がいかなる意義をもつのか。そこに機をおさえてくる所以がある。そこに曇鸞大師の機の自覚がうかがわれる。大師自身に機の自覚があるところに衆生という問題にひっかかる。見れども見えずということがある。何百人もの人が何百万遍読んでもその言葉にひっかからぬ。曇鸞大師が機というものをおさえることによって始めて浄土論中の人となり、浄土論のなかに自己を見出されたのである。そこに浄土論というものが反って自己の教法ということになる。機をおさえることによって前にもいったように他力とか、往還二回向とか、他力回向というようなことを下巻に明らかにしてこられるが、それらも浄土論自身にはそうはっきり出てはいないのである。

 浄土論に如来回向の法が明らかになるということは、一面には機というものが明らかにされてきて成就する。機というものを欠いてはいかに本願力回向というとも何も出てはこない。機というものを正確におさえることに対応して本願力回向という意義を開顕してくる。そういうように機と法というものは相対応している。これは面白いことである。どこに立って天親菩薩はものをいっておられるのか。なるほどこれは疑問である。われわれは頭から浄土論を真宗の聖典と思っているが、別に始めから真宗の聖典というわけではない。もともと龍樹・天親、また無著もそうであるが、印度では論師・論家であって、今日のいわゆる最高のインテリである。仏教を代表する知識人である。それ故天親菩薩の学問は瑜伽といって瑜伽大乗であり、龍樹菩薩の方は中観という。支那は言葉の語呂が大切なので、中観・瑜伽というているが、実は中・瑜伽というのが本当であろう。龍樹菩薩は中観の代表的論家であるのに対して、天親菩薩は瑜伽の代表的論師である。浄土論はその瑜伽の安心を述べたものである。その瑜伽の安心であることをいささかも否定せず、またこれに矛盾せずして浄土真宗の聖典となっているのである。即ち浄土真宗は一言せば大無量寿経の史観である。本願念仏の歴史に立ってみると、その瑜伽の安心がそのままに本願念仏に救われた体験になっている。個人的にみれば瑜伽の安心であるが、本願念仏の歴史に立ってみるとき、それに違わないで真宗の聖典である。このように浄土論は最初から真宗の聖典ではない。故に 「諸々の衆生と共に」 というのは菩薩と見えぬことはない。天親が菩薩でありその菩薩が願生するということはどういうことか。そのためには天親菩薩がどこにいられるか。そういうことを一応おさえてこなければならないことになる。これと同じことであるが、龍樹が易行といわれたのは自己をどこにおいておられたのか。自分には必要のない立場から易行道をいわれたのか。ただ単に人のためにのみ説かれたのか。そこらに問題があると思う。結論的にいえば、願生ということをいわれる時は一体どういうところに、即ち菩薩がどういうところに立つところに願生ということが出てくるのか。それを押してくれば結局は本願の正機とは何かということになる。ここに八番問答が出されるところの所以がある。


『自己に背くもの』 安田理深述 (1) 転回点

2011-08-14 13:08:11 | 『自己に背くもの』 安田理深述

     - 『自己に背くもの』 -

         八番問答講和  安田理深述

 (1) 転回点 その(1)

 曇鸞大師は浄土論の解釈が一応終わってからその最後に至って一つの問題を提起しておられる。そこを今回は拝読することになっている。論註をみてみるとたびたび話すように浄土論というものが偈頌-歌、これを印度では伽陀といい、支那では頌といい、日本では歌というーとその解釈が散文で書いてある。その散文を長行といっている。論註は上巻では偈頌の解釈、下巻では長行の解釈ということになっている。そしてこの上下二巻の終りにはそれぞれ重要な問題を掲げておられるのである。下巻では自利利他の問題を掲げて、自利利他速得阿耨多羅三貌三菩提、この速やかにという問題をおさえて曇鸞大師はそこに浄土論を手がかりとして本願他力を摂き、他力という問題を明らかにしておられる。古来これを他利利他の深義といっている。下巻には五念門の因果を広く解釈してあるが、そこでは五念門の行というものが他力であるということを明らかにしていられる。浄土真宗では他力回向をいうが始めてそれを明らかにされたのが曇鸞大師である。それによって浄土論というものが全く新しい解釈即ち浄土論をみる眼が開かれたのである。かくて上巻にも下巻のそれと相応した一貫した問題を掲げられている。

 論註上巻の最後を結ぶこの問題は何かというに、古来から八番問答といわれて問答が八通り繰り返されてある。然しその中心問題は先ず第一の問答で、これが八番問答を一貫する根本問題であろう。では問題はどういうところから起こったかというと、天親菩薩の回向章から起こっている。回向章は願生偈の最後のお言葉で、四句一行の流通文である。流通文は結文をいう。

 我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国

 この偈のなかの 普共諸衆生 往生安楽国 と結んであるが、さたその衆生といっているのは何であるか。いかなる衆生を意味しているのか。ただ衆生というのみでは仏も衆生であり、菩薩も衆生であり、凡夫も衆生である。それ故天親菩薩が願生というものにおける衆生というものが一体菩薩を意味するのか、それとも凡夫を意味するのかはっきりしない。ここに衆生とは何を指して衆生というのか、という問題が提起されたのである。

 今回拝読するところはその前に 以偈頌総説竟(偈頌を以て総説し竟ぬ) というところから出ている。故にこの問題は回向文の問題ではない。解釈はもう終っている。この問題は回向章の問題ではなくその問題を手がかりとして、浄土の機とは一体何であるかを問うのである。これは気のつかぬことであるが、それを曇鸞大師はおさえられたのである。法があっても機がないときには法は生きてこない。活動しない。機というものにおいて法は働く。つまり法の本性は永遠に変わりがないが、その法も機がなければ単なる可能性というものに終わり、現実的にはならない。現実的になるためには機というものを要するのである。そうでなければ法というものはただ本質としてあるのみで、生きて働くところのー法が働くということができない。

 論註の最初に先ず浄土論を解釈するにあたって、

 謹案龍樹菩薩「十住毘婆娑」云。菩薩求阿毘跋致有二種道。一者難行道。二者易行道。(謹んで龍樹菩薩の「十住毘婆娑」」を案ずるに云く。菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一つには難行道なり。二つには易行道なり。)

 と龍樹の十住毘婆娑論を以てその出発点として解釈しておられる。そこに難行道易行道ということが出ている。次いで 「難行道者謂於五濁世於無仏時」(難行道とは謂く五濁の世無仏の時に於て) といってそこに時が出ている。これは面白いことである。論註の一番最初に時が出ており、その最後には機が出ている。始めに時、終わりに機、時機である。法というものは時を得て始めて現実的なものとなるのである。時機純熟というがこういう問題に触れたわけである。つまり浄土論が天親菩薩の安心を表白されたのであるが、願生偈は普共諸衆生といっている。天親菩薩が浄土論を述べた立場はどこにあるか。即ち天親菩薩が願生といわれたときにはどういうところに自己を置かれたかということである。そういうことを問うのである。更に押してゆけば浄土の機というもの、阿弥陀仏の本願の正機とは何であるか。こういう問題である。