ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

本と私

2009年03月02日 | 気にかかる



        クリスマスローズ (西宮の公園 09-2-27)
    下を向いて 地面近くに咲ているので写真が撮りにくいんです
        新しい品種は前を向いて咲くそうですが…



昨日から「お水取り」という事で、寒さがぶり返してきました。背中がぞくぞくするので又風邪薬を飲み始めました。

天井近くに棚を作ってもらって、文庫本がづら~っと並んでいるのです。若い頃は目が良いですから、文庫本で十分だったんです。乗り物に乗るときは本を読む、これ当然のことでした。今はほとんどがハードカバーですし、目が悪くなっていますので、乗り物で読む事はめったありません。

私の若い時代は、今のように沢山の作家は居ませんでしたから、文庫本はいわゆる名作物が大半でした。お給料から、1冊1冊買ったものですから、愛おしくて処分できないのです。ハードカバーは「結婚祝いに何が良い?」と聞かれれば、友達の時は「本を頂戴」と貰ったので、これも捨てられません。

山岡荘八の「徳川家康」26巻(昭和40年~41年)は、出版されるのを待ちかねて、1冊1冊買ったものです。むさぼるように読んだと言う想い出があります。

今日、手にとってみましたら、全て第1版でした。そしてそこには作家の印鑑が押してある紙(印税の為でしたっけ?)が張られていました。「そうだ昔はこうだった」と懐かしく思い出しました。

読書会でも毎月1冊買っていましたが、これは自分の好きでないのもあったので処分したのもあります。読書会の先生が「本は自分で買って読むものだ」と言われていましたので、服は買わなくても本は買うと言う私でした。

震災で散乱した本を見て思ったのです。置いておきさえすれば又、子や孫が読むだろうと、惜しげもなく本代を使っていたのは間違いだと気が付いたのです。今のように作家の数が増えれば尚更です。男と女の違い、好きな作家の違い、私が大好きでも、子や孫は好むとは限らないのです。それに気づいた時から、よっぽどのことが無い限り本を買うのを止めました。図書館で借りる事にしたのです。

それでも昔買った本が壁面を占めています。私にはどうしても処分できないのです。何の価値も無い本なのです。でも背表紙を眺めていますと、それを買った時の情景が浮かんできたりして想い出に浸ったりします。この本は息子達にとって価値の無いものだと思います。だから全ての処分は彼らに任せることにして、時々私も処分していきましょう。

特別な価値の無い私の本でさえ、愛おしいのです。

昨日の児童文学の寄贈者の方のお気持ちも解らないではないのです。でも自分の本を大切にしてもらう為には、歩み寄りが必要ではないのでしょうか、「希少価値だから、特別だろう…」はご自身で管理なさるなら良いですよ。でも府民の税金で管理してもらうとなれば、おのずと限界はあると思います。

寄贈された書籍が「児童文学者」に千金の価値であっても、その本は考古学者には如何でしょうか? 彼らには又彼らの大切な書物があるのではないですか。

橋下知事は「学者と政治家の違い」と言われましたが、学者もその分野で、そのものに対する価値観の違いはあるのではないですか?

問題は府民税の使い道ですよね。どんなに貴重な書籍(館長は文化財としてと言っていましたね)でも、違った分野に取っては無価値と言う事もあるでしょう。だから「児童文学」だけに、それも広く府民に役立つのではなく、研究者の為だけにとなれば、贅沢はいえないのではないでしょうか。


「国会図書館も欲しがっている」と言いますが、国会図書館には世界中のあらゆる分野のあらゆる本が集められていると聞いています。だから欲しいのは、今回問題の寄贈本のほんの一部、全てではないのではないでしょうか?

いろんなことを総合してみれば、居丈高にわが意だけを正当化するのではなく、今一度冷静に考えて、良く話し合われて、歩み寄って円満な解決がなされるようにと、本大好きな私は考えています。
コメント (2)
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