ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

春の施餓鬼

2009年03月23日 | 一寸そこまで

    幹を見れば 桜じゃ~ないんですよ  (尼崎・近松公園 09-3-22)
      尼崎は坂が少ないので 大人も子どもも自転車が大活躍



     少年二人… 近年ではこうして外で遊ぶ姿も見なくなりました  
   この木も桜ではないのです 去年まで名札がついていたのにね~



                アセビ (近松公園 09-3-22)  
           去年は花盛りでしたが 今年は花が少なかった  
      咲いていたのは「サンシュユ」「水仙」そして上の大きな木2本



昨日はお寺で施餓鬼法要が行われました。朝から雨が降り続いていました。余り降るようだと、明日にしようかといっていましたが、家を出る予定の9時過ぎには曇りながら雨は上ったようですので行くことにしました。

お寺に入りますと、まず自分達の塔婆を探してもらって、本堂に祭っていただきます。そしてお坊さんが戒名と施主の名前を読みます。

何時もなら塔婆をおいてある場所に彼女がいて、私の顔を見るとさっと取り出して運んでくれます。でも彼女はもういないのですから、名乗って取り出してもらいました。

読み上げが終わりますと、焼香と言う順番です。日蓮さんの両脇には、代々の住職さんの為の大きな塔婆が立てかけてあります。私は其処にきっと彼女の塔婆があるに違いないと思っていました。ありました。大きな塔婆より少し小さめの塔婆が後ろから顔を覗かせています。戒名の最後の方に「尼」と言う字がついていましたから、きっと彼女の塔婆だと思い、主人にも言いました。

やっぱり何となく寂しかった。特別彼女に逢いに行っていたわけではないけれど、行けば当然其処にいた人が居ないのですから、何となく心に隙間風と言う感じでした。

読経は5人のお坊さんがなさるのですが、其処にも変化がありました。住職さんより年上の人で、以前には私の家にも月参りに来れれていたお坊さんの姿はなく、住職の息子さん(高1かな? 小学生の時から読経に加わっていました)と後雇われているお坊さん3人の5人に代わっていました。

それが済むと、本堂の裏のお部屋で「ばら寿司」を頂くのです。これは遠方からの方は助かるのではないでしょうか。持って帰ってもいいのです。熱いお茶が用意されていますから、私達はお腹に入れて帰ります。

この「ばら寿司」が今日から「巻き寿司」に変わりました。お店も変わったようです。「ばら寿司」の時は朝に調理されるのでしょう、まだ温かみがありましたが「巻きすし」は当然ながら冷たいです。ここでも又彼女のことが思い浮かびました。こうして世代交代して、全てが少しづつ変わっていって、みんなの中から彼女の存在が消えていく、それが「死ぬ」と言う事なんだな~と教えられました。


お隣の近松公園も今年も楽しみにしていた花はぐ~んと少なくガッカリしました。桜の芽は膨らんでいました。枝垂れ桜が多いことに気が付きました。咲いたら奇麗でしょうね。花は駄目でしたが、姿は見ませんでしたが、ウグイスの「ホーホケキョ」を聞きました。これで花が見れなかったことも我慢出来ました。

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