ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

「同情」と言う言葉

2008年06月30日 | 今日この頃


   

   
          なんとも不思議な姿の花 ニゲラ  
           上:満開  中:蕾  下:種


晴れたり曇ったりのお天気です。梅雨ですね~。今日で6月も終わり、早、半年が飛ぶように過ぎてゆきました。この半年何をしてきたのでしょうか?唯、自分の為に一生懸命生きてきただけです。人様のお世話もしない代わりに、ご迷惑も掛けなかった。それで良かったんですよね。

健康面につきましては現状維持、主人が眼の療法の為にちっちゃな入院をしましたが、後はやはり現状維持。

行きたい、見たいに付いては8分通り希望が叶った。見たい行きたい事を冷蔵庫の扉に止めてあるのですが、実行出来ない事が増えてきました。だんだん「億劫病」に罹かりつつあるようです。でも足腰に故障が無い内にもっと行動をおこしておきましょうと、後半を迎えるにあたって思っています。

曽野綾子さんが『「同情」と言う日本語をあまり好かない。体験的に習慣的に、その言葉は自分が上に立ちながら、相手を見下すと言う立場・姿勢をにおわすからだ。本当の「同情」はきわめて高度な人間の精神の証である。つまり自分以外の他者の置かれた立場を理解して心を動かされる事だから、電車の中で平気で化粧する鈍感な女性たちのように、他者の存在の希薄な利己主義者はとうてい持ちえない心情だと思う。…』

私も人一倍同情されるのが嫌な方だと思う。でもその心の一角が少しずつ崩れてきつつある。其れは自分の老いを感じる気持ちが強まってきたからだと思う。どんなに頑張っても50代と同じではありえない70代が今の自分だと、少しずつ認めつつある自分が居るからだろう。

「人に迷惑を掛けない」ように頑張る気持ちは「同情して欲しくない」と言う気持ちと似ているようで、似ていないと思っている。「心得」と「強情」の違いだろうか。

もう何も考えないで一種の「同情」を受け入れるのが、席を譲られた時である。近頃バスでも電車でも「この善意」を示される事が多くなった。私が乗り込んできたばかりに、その方は立たなければならなかったと思いつつも、喜んで座らせていただく。

これは体力の増強の為には、短時間なら立っていた方が良い事は解っているが、特にバスは急停止した時や大きくカーブした時に、特に荷物を持っている時は荷物に引っ張られて「おっ、とっと」と言う感じになるからです。きっと踏ん張る力が衰えて来ているのでしょう。

自分の体の声をよく聞いて現状を認識し、「席を譲られる」と言う好意(同情?)を素直に頂きながら、まだまだ当分は出歩きたいな~と思っています。







コメント (6)
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