非国民通信

ノーモア・コイズミ

子供を大切にしすぎなのだ

2013-11-08 23:26:08 | 社会

ベビーフード、使いこなそう 栄養に配慮、専門家「手作り信仰が行き過ぎ」(朝日新聞)

 刻んだり、つぶしたり、すりおろしたり――。離乳期の子を育てる親にとって、一手間もふた手間もかかる離乳食作りは悩みの種だ。ベビーフード(BF)は便利だが、どこまで頼っていいのか不安に感じる人も多い。上手に使うには、どうしたらいいのだろうか。

(中略)

 都内の小児科で20年近く栄養指導をしてきた帝京科学大の上田玲子教授(小児栄養学)は「BFの利用は栄養的にも衛生的にも全く問題ない」と言う。栄養バランスや塩分量に配慮されており、使う添加物の範囲も通常の食品より厳しく設定されている。

(中略)

 むしろ、上田教授が気になるのは、「手作りで」と思うあまり、離乳食にストレスを感じる親が多いこと。子どもが泣き続けていても離乳食作りを優先するケースも多く、積み重なると子育て全体への余裕のなさにつながる。

 手作りのご飯から愛情を感じ取ったり、一緒にご飯作りを楽しめるようになったりするのは早くても3、4歳ごろという。「まずは親子ともストレスなく食卓につき、声をかけながら楽しく食べることを考えて。最近は『手作り信仰』が行き過ぎている。BFの利用に罪悪感を持つ必要はありません」と話す。

 

 ちゃんとした調査ではありませんけれど、「子供のハーネスあり?なし?」みたいなアンケートもありました(参考)。容認派も多い中で、絶対にダメだと言い張る人もいたものですが、ベビーフードの利用も似たような扱いなのかも知れません。私としては子供用のハーネスと同様、アリだと思います。というより、もっと積極的に利用されるべきではないかと。

 子供の周りにいる大人――特に子供の最も近くにいる人すなわち親――が楽をできるような道具は、もっと積極的に活用されるべきですし、世間からの理解が得られてしかるべき~と以前に書きました。少子化が取り沙汰される時代、それを何とかしたいのならば「子供のために」と叫ぶのではなく、子供の周りにいる大人――その中心は言うまでもなく親――が楽をできるようにしなければならないのではないでしょうか。

 粉ミルクのコマーシャルは、流してはいけないことになっています。そこに至るまでには粉ミルク製造業者側の都合の良い売り込み方もあったとはいえ、同時に「母乳育児=善」みたいな発想もまた背景で幅を利かせていることは否定のしようがないでしょう。他にも布オムツを推奨して紙オムツの使用を戒めるような動きなんかも、幸いにしてそこまで流行ってはいないようですが、あるわけです。粉ミルクも紙オムツも、子供の周りにいる大人に楽をさせてくれる優れた発明だと思うのですが、それを道徳的に断罪したがる人もいる、と。

 そしてベビーフードです。上記の引用元に登場する教授によると「むしろ~気になるのは、『手作りで』と思うあまり、離乳食にストレスを感じる親が多い」「最近は『手作り信仰』が行き過ぎている」とのこと。全く、現代の「親」は大変です。もう少し前の世代の「親」はどうだったでしょうか。伝統的な我が国の子育てにおいては、間引きや嬰児殺しの類は必ずしも珍しくはなかったですし、やんごとなき人々の間では産みの親ではなく乳母=赤の他人に幼児の世話を任せていました。私の祖父母くらいの年代でも赤ん坊の面倒を見るのは親よりも幼い兄や姉であることが多かったと聞きます。

 まぁ、そんな日本の伝統的な子育てが正しいとも思わないですけれど、現代の育児もまた行きすぎている、あまりにも子供中心になりすぎているのではないかと疑問に感じるわけです。もうちょっと、周りの大人の都合を考慮してやっても良いのではないか、と。手作りの離乳食ではなくベビーフード、母乳ではなく粉ミルク、布オムツではなく使い捨ての紙おむつを使っても、親(特に母親)が罪悪感を持たないような環境作りが望まれるところです。

 しかるに現代は「子供」を葵の印籠代わりに使っている人が多い、「子供のため」というマジックワードで相手を黙らせるのが当たり前になっている人が多いように思います。子供に纏わる諸々の不平不満は当然ながら発生するわけですが、「子供のためなのだから我慢しろ」と子供をダシにして他人の口をふさごうとする人が、「子供を大切にしている人」として罷り通っているのではないでしょうか。

 結局、その犠牲者は最も子供の近くにいる大人、すなわち親とりわけ母親だったりします。(母)親は産む機械でも育てる機械でもない独立した人格ですから、母親なりの都合だってあるわけです。子供につきっきりではいられない、子育てに疲労困憊することも当たり前のようにあることでしょう。だからベビーフードでも何でも使って「子供の周りにいる大人」の負担を減らしていく必要があると私は思うのですが――「子供のため」に周りの大人が跪くのが当然みたいなノリもまた強いです。ゆえに既製品のベビーフード利用は白眼視され、愛情があるなら手作りをするものだという感覚が幅を利かせてきた、この結果として子育てのハードルは上がるばかり、「子育て全体への余裕のなさにつながる」事態を招いてきたと言えます。母乳育児だの手作り離乳食だのではなく、テキトー育児が推奨されるぐらいの方が良いんじゃないかと、私なんかは思うのですけれどね。

 

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解雇なんて簡単にできるんですよ

2013-11-06 22:52:36 | 雇用・経済

「ロックアウト解雇」、職場から締め出し自主退職促す(朝日新聞)

 今後も解雇規制を緩める議論は続く見通しだ。それを先取りするかのように、職場では様々な方法で正社員が解雇に追い込まれている。

 2013年6月12日付で解雇します――。外資系IT企業、日本IBM(本社・東京)の会議室。今年5月末の午後4時すぎ、入社24年目の女性(45)は、マネジャーに「解雇予告通知」を突然渡された。

 「業績が低く、会社が支援しても改善されない」と解雇理由が読み上げられ、「もはや放っておくことができない」と断言された。続けて人事担当者が「1週間以内に自ら退職する意思を示した場合は解雇を撤回し、自己都合退職を認める」と自主退職を勧めた。そして、定時の午後5時36分までに私物を持って帰るよう指示した。

 「ロックアウト解雇」とよばれる。いきなり会社の外に「ロックアウトする(締め出す)」からだ。

 「退社を命じられたら、パソコンを持ち出せ」。女性は、加入している労働組合にそう助言されていた。

 30代のとき、将来が有望な「トップタレント」に選ばれ、解雇宣告直前もプロジェクトリーダーを任されていた。「能力不足」が解雇の理由にならないことを示すために、パソコンに残るメールなどのデータを守らなければならない。

 だが、上司は「パソコンを返せ」と監視していた。女性はトイレに行くふりをして労組に電話し、駆けつけた労組の幹部に付き添ってもらって、パソコンを持ち帰った。

(中略)

 ロックアウトを宣告された30人のうち10人は裁判所に訴えた。だが、20人は結局、宣告から1週間以内に「自主退職」を受け入れた。解雇よりも自主退職の方が、退職金が多いからだ。平均でも400万~500万円くらいは、上乗せされるという。家族を養い、住宅ローンを抱えている人の立場は弱い。IBMは、上乗せ金を渡して自主退職をのませれば、訴えられることはない。

 「会社は、解雇なんて簡単にできるんですよね」。自主退職を「選ぶしかなかった」と男性はいう。

 

 経済誌には、日本の解雇規制は厳しいと(何を根拠にしているのやら)書いてあるのはよく知られるところですが、現実はこんなものです。順法精神などどこ吹く風の中小企業は元より、名の知れた大企業にとっても正社員のクビを切るのは容易いことなのです。よく「外資はドライで~簡単に首を切られる~」とも言われますけれど、外資系企業は在日米軍とは違います。外資系企業だって日本で活動する以上は日本の法律の下に置かれているわけです。別に外資系企業にだけ特権として解雇が認められているようなものではない、決して例外的な存在ではありません。ただ単に日本の緩い緩い制度の下で可能なことを探った結果として、当たり前のように解雇が連発されているだけのことです。

 過去に起こったことが塗り替えられようとしているのは、決して日本の戦前・戦中のことだけではありません。電力会社の一般従業員を標的とした、人員削減や賃金引き下げなどの一方的な労働条件の不利益変更を「なかったこと」にしようとしている人もいますし、あるいは全盛期に吹き荒れた中高年を狙い撃ちにしたリストラの嵐もまた忘却の彼方に追いやろうとしている論者も少なくないわけです。そうして正社員、中でも中高年以上のバブル期以前の入社組が「守られている」かのごとき幻想をまことしやかに語り、若年層に虚妄の被害者意識を植え付けようとする「若者の味方」を装う人も枚挙に暇がありません。

 まぁ、今となっては就職氷河期世代の元・若者もリストラの対象として狙われる年代に足を突っ込みつつあるわけですし、大半は親も元気で扶養家族もいないし本人も健康な場合が多い(すなわち金に困窮しにくい)世代と、親が年金生活に入り家族を養い必要性に迫られ諸々の健康問題にも突き当たる世代の生活の安定とどちらが優先されるべきかは考えるまでもないことでしょう。若者の雇用ではなく、若くなくなってからの雇用――トウが立った元・若者が継続して働ける環境作りが模索されねばならないところですが、若い人を非正規で雇っては若くなくなったら新たな若者に置き換えるみたいな雇用形態が普及の一途にあるのですから日本経済のサイクルが破綻してしまっても当然の帰結と言えます。

 以前にも書きましたけれど、日本では殺人は許されていません。しかし、殺人事件は着々と件数を減らしながらも毎年1000件程度は発生しています。もし日本が解雇規制が厳しく、解雇ができない国であるならば、同様に厳しく殺人が禁止されている日本で殺人事件など起ころうはずがありません。ところが法律で禁じられているはずのことは普通に発生する、殺人事件はなくなりませんし、経済誌上は不可能ということになっている解雇も星の数ほど事例が挙げられるわけです。そもそも経済誌の中身が専らフィクションだというのはさておき……

 日本の刑罰もそれなりに重い方ですが、より厳刑を持って望むような国では日本よりも犯罪が少ないかと言えばさにあらず、だいたいの国は日本よりも治安が悪い、厳罰を振りかざして国民を威嚇しているような国で殺人が横行しているなんてことも決して珍しくはありません。結局のところ「法律でどれだけ厳しく規制されているか」と「法律が守られているか」は必ずしも連動するものではなく、仮に法律上は解雇規制が厳しい国であったとしても、実際には雇用側が恣に解雇権を乱用している国もあったりするわけです。

 日本で働く人々及びそこに扶養される人々ひいては日本経済のサイクルを守るためには、単に法律が存在するだけでは足りないのでしょう。不当に解雇されたとして、個人的に訴訟を起こせば長い年月と費用をかけて裁判に勝つことは可能かも知れませんが、得るものと失うものが釣り合うことは希です。むしろ罪が犯されたときにその「犯人」を裁くための制度よりも、事前に罪が犯されないための運用が求められる、不当解雇で裁判沙汰になったときに初めて元・労働者の後ろ盾になる程度の制度ではなく、解雇「される前」に雇用側の横暴を抑え込み、取り締まるような運用こそ必要と言えます。

 ちなみに解雇の金銭的解決を制度化すべき云々とか宣う論者も目立つわけですが、これだと解雇に伴う「手切れ金」の支払いを免れるために「自己都合による退職」を強要する会社の激増が予測されます。解雇規制が厳しいから退職強要が発生するのだと語る人もいて、まぁ殺人が規制されているから自殺に見せかけた他殺が発生することもあるのかも知れませんが、「いくらまで慰謝料を払えば人を殺しても良い」というルールを定めたところで自殺に見せかけた他殺が減るとは考えにくいですし、自殺に見せかけた他殺が公然たる他殺に変わったところで何かが良くなるはずもありません。それは誰の目にも明らか――なはずですが、経済誌からギャラをもらえるような人にとっては違うようです。

 

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ハト派の危機

2013-11-04 22:43:30 | 政治・国際

議員の立場考えて/何が問題なの? 陛下に手紙、官邸前デモ参加者も賛否(朝日新聞)

 「脱原発」への思いを書いた手紙を天皇陛下に手渡すのは、やりすぎかどうか。山本太郎氏(38)が参院議員になる前から関わっていた首相官邸前デモの参加者たちの間でも、賛否は割れた。

 1日午後6時過ぎ。毎週参加するという都内の女性(57)は「天皇にお手紙書いちゃいけないの?」と書いた紙を掲げた。「福島の人の命が脅かされているのに、手紙を渡したぐらいで何が問題なのか」。福島第一原発では汚染水問題も解決されないままだ。「大切なことは何か、政治家も国民も考えてほしい」

 千葉県松戸市の篠崎清さん(69)も「天皇の政治利用なんて大げさ。原発反対の思いを伝えたい一心だったのだろう。今まで思いつかなかった表現方法で、彼の思いが伝わるのでは」と評価した。

 一方、首をかしげる人もいた。都内の福祉施設に勤める金子佳史さん(40)は「芸能人のノリのままでは許されない。熱意は分かるけど、議員という立場であることを慎重に考えてほしかった」。都内の女性(65)は「批判する口実を与えることになり、原発推進派の人たちを勢いづかせる結果にならないか心配です」と話した。

 

 先日は山本太郎が秋の園遊会にて天皇に怪文書を渡したということで、結構な話題を攫っています。これを天皇へ直訴状を渡そうとした田中正造になぞらえようとする向きもあるのですが、どうなのでしょう。私の世代ですと小学校の国語の教科書に田中正造の伝記風小説が載っていて、直訴状を渡そうとして取り押さえられた場面で天皇が「正造は狂人である」と言い放つ一幕がありました。これはフィクションが混じっていますけれど、ともあれ当時の制度上では直訴した者は死刑、そこを天皇が「狂人である」と言ったことで有耶無耶になって田中正造は処刑されずに済んだと、そんなエピソードが書かれていたものです。今回も事態収束のため「山本太郎は狂人である」ぐらいに天皇が言ってくれれば、私は何となく納得してしまいますね。

 田中正造が闘った足尾銅山の鉱毒問題や水俣病に代表される各種の公害と、昨今の原発問題とでは決定的な違いがあります。つまり公害の場合は「初めに健康被害があり」、そこから原因の追及と解決策を求める動きがあったわけです。一方で原発問題の場合は「初めに結論=脱原発」があり、それを正当化するために「健康被害が捏造される」と。原発を何が何でも悪とするために、「被害」をでっち上げてしまう、それだけでも実に不毛なことですし、その過程で福島(東北)に纏わる諸々が被害をもたらしうる危険物であるかのごとくに喧伝されてきました。公害との戦いは被害者を守るためでしたが、反原発は新たな被害者を創り出すため、という点で全く逆の方向を向いていると言えるでしょうか。

 山本太郎の行為については、逆の意味で天皇の政治利用を願っている層からの逆ギレ的な反発もあれば、天皇を政治利用することの危険性を記すメディアもまた少なくありません。一方で、これを擁護する人もまたいますし、個人に止まらず新聞社としてこれの正当化を図ろうとする類もまた存在するわけです。

 

山本太郎議員の行動、識者の見方は 園遊会で陛下に手紙(朝日新聞)

 山本氏には「公人の立場を考えるべきだった」と指摘しつつ、政府内の批判にも違和感があるという。天皇陛下が出席した4月の主権回復式典を踏まえ、「政府の方こそ利用しようとしており、あれこれ言う資格はない」。

(中略)

■政治利用と言うには違和感 明治学院大の原武史教授(政治思想史)は、「今回の行為を政治利用と言ってしまうことには違和感がある。警備の見直しについても議論されるなど大げさになっており、戦前の感覚がまだ残っていると感じる。政治利用というならば、主権回復の日の式典に天皇陛下を出席させたり、IOC総会で皇族に話をさせたりした方がよほど大きな問題だと感じる」と話した。

 

陛下に手紙「政治利用」か? 山本太郎議員の処分検討(朝日新聞)

 今年9月の国際オリンピック委員会(IOC)総会への高円宮妃久子さまの出席を、下村文科相らが宮内庁に強く働きかけた。今年4月に安倍政権が主催した「主権回復の日」式典では、閉会後に天皇・皇后両陛下が退出する際、会場から「天皇陛下万歳」のかけ声が起き、壇上の安倍晋三首相も万歳をした。

 民主党政権時代の2009年には、鳩山内閣が天皇陛下と来日した習近平(シーチンピン)・中国国家副主席(当時)との会見を慣例に反する形で実現させた。

 

 ……ようするに朝日新聞は「他もやっているじゃないか、山本太郎ばっかりが批判されるのはおかしい」と言いたいようです。これと同一のロジックは、極右層が戦前の日本及び日本軍の蛮行を正当化する流れで、よく聞かされるでしょうか。つまり「他の国でも同じようなことをやっている。日本だけが非難されるのはおかしい」と。その筋の頭の人の中では「他の人(国)もやっていることなら、自分が同じような罪を犯しても、自身を正当化しうる」ことになっているわけです。朝日新聞もまた然り、他の○○もやっていることなのだからと、山本太郎による天皇の政治利用の問題から批判の矛先をすり替えようとしていると言えます。

 左派と目される政党は中核派みたいな左翼崩れとは徹底して距離を置いてきたのが一般的と思われますが、昨今では状況も変わってきたようです。中核派の支援する候補に統一会派結成を呼びかけたり小泉に尻尾を振ったり、脱原発無罪が合い言葉なのか組む相手を選ばない様子が窺われます。付き合う相手を間違えると自身の信用も失うと私などは考えるところですけれど、カルト化が進んでしまうと色々と見えなくなっていくものなのかも知れません。本来なら、山本太郎みたいなのは落選させることで自浄能力を発揮することが脱原発を掲げる政党や支持層には求められても良さそうなものです。しかし、原発や電力会社を罵ってさえいれば後は不問で手を組んできた結果として今に至るのでしょうか。

 そして冒頭の引用です。都内の女性(65)は「批判する口実を与えることになり~」と陰謀論的な語りを披露していますけれど、ならばこそ山本太郎のような被害妄想型の脱原発論とは距離を置くべきではなかったかと問いたくもなります。しかし脱原発無罪な人々(及び新聞社)には何を言っても無意味なのかも知れません。他にも「手紙を渡したぐらいで何が問題なのか」と問題を理解できていない人の声が何の注釈もなく伝えられ、篠崎清さん(69)による「天皇の政治利用なんて大げさ。」との言葉が続くわけです。ふむ、戦前を実体験として知るには惜しい年代でしょうか。

 間違いなく日本の戦前を実際に生きてきたはずの瀬戸内ジャクソン寂聴氏は「(原発が稼働する時代より)戦争中の方がまだましでしたよね」と語りました。他でも反原発デモの扇動者が伝えるところでは昭和3年生まれの女性が「原発は戦争より悪い」と言い切ったとか。私が歴史を学んで知った限り、戦争中の方が今よりもマシであるとはとうてい考えられないのですが、実際に当時を生きてきた人が原発稼働よりも戦争の方が好ましいと言い切っているのですから、まぁ私の方が認識を改めなければならないのかも知れません。戦争中の方がマシ、原発は戦争より悪いと戦前を生き抜いた人が証言しているのです。戦争ってのも、そんなに悪いものではないのでしょう。

 そして結構な年を召した人の口から「天皇の政治利用なんて大げさ」云々と躊躇いもなく出てくるわけです。民主主義としての手続きをスルーして天皇を政治上の権威として担ぎ出すことの危険性に、もう少し敏感な人がいても良さそうに思ったものですけれど、そうでもないようです。かつての日本が引き起こした戦争行為への反省や、そこに至るまでに行われたことへの戒めの意識が完全に抜け落ちている脱原発系の人や新聞記者もまた少なくないのでしょう。過去を歪曲したがる歴史修正主義者ばかりではなく、そう呼ばれない人々もまた過去を忘却し、自分の都合の良いように塗り替えていると言えます。戦争中の方がマシ、天皇の政治利用なんて大げさと、そう公言されてしまう時代にはハト派の立つ瀬はありません。

 

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私の住む町では与党ですよ

2013-11-02 23:06:39 | 政治・国際

民主まだ与党?「巨大野党と対決」党機関紙ミス(読売新聞)

 民主党の機関紙「プレス民主」最新号が、「巨大野党とまっ向から対決」と誤った見出しのまま6万部が刷られ、党所属国会議員ら一部関係者に配布されていた。

 党職員が10月30日に誤りに気づき、発送を止め、「巨大与党」と刷り直した。党広報委員会は「校正の段階で気付けなかった」と平謝りだが、党内からも「緊張感が足りない」との声が出ている。

 

 「民主まだ与党?」などと見出しには掲げられていますが、私の地元では民主党は与党です。皆様がお住まいの市区町村ではいかがでしょうか? 私の住む自治体では民主党は自民党と手を携えて首長を支える純然たる与党であり、共産党という野党と真っ向から対決しています。民主党機関誌の「巨大野党とまっ向から対決」との見出しが間違っているとは一概に言えないようにも思うのですけれど、どうなのでしょうね。まるで民主党が下野した野党であるかのように新聞各社は伝えています。それはまさに地方政治軽視の現れに他なりません。地方議会における勢力図が多少なりも頭に入っているなら、民主=野党とは言い切れないことが分かるはずです。むしろ野党面して自民党の対抗馬であるかのごとくに自らを装う民主党の欺瞞をこそメディアは追求すべきでしょう。

 まぁ、全国各地の地方議会で民主党が真っ向から対決している共産党を「巨大野党」と位置づけるのは無理があるかも知れません。組織基盤はともかく、議席数は流石に微妙なところですから。もっとも、ある種の人の頭の中では日教組が日本の教育界を牛耳っていることになっているみたいな類は色々あるわけです。日教組なんて加盟者減少に歯止めがかからないジリ貧の組織なのに、ある種の人々の頭の中では巨大の「悪の」組織になっている、それと同じように存在するかどうかも怪しい「反日工作員」だの「原子力ムラ」だのを影の支配者であるかのごとくに語りたがる被害妄想狂も、我が国の元・総理大臣を含めていたりします。こうした流れで行けば、地方議会での対決相手である共産党が民主党という愚か者の集団からは「巨大野党」に見えている可能性も?

 そもそも民主党が「巨大与党」として想定していると思しき自民党と「真っ向から対決」する意思がどれだけあるのか疑わしいところでもあります。そりゃ、選挙の時はそうなのかも知れません。しかし政策的にはどれほどのものでしょう。確かにデフレ一直線の民主党とデフレ脱却志向の自民党とで逆を向いているところもあります。しかし生活保護の切り下げや消費税増税のように民主党が敷いたレールの上をそのまま自民党が走っていったケースも多々ある、自民党のダメな部分は民主党も同様に兼ね備えているわけです。安倍総理が消費税増税を素通しすると決めたとき、民主党の歴々はその決断を賞賛したばかりではなかったでしょうか。そして国会ではまだしも地方議会においては、専ら自民党(系の会派)とともに与党の一員として振る舞っているわけです。

 

食材偽装:中国料理で「芝エビ」表記NG 小エビ表記に(毎日新聞)

 ホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材が使われていた問題で、公益社団法人「日本中国料理協会」(本部・東京、陳建一会長)は31日、中国料理業界で小さいエビの総称として使っていた「芝エビ」を、「エビ」か「小エビ」と表記するよう全国の協会加盟店(約1800店)に通達した。同協会は「食材名の慣習的呼称や誤表記について、どのように修正すべきか悩んでいる店舗が多く、早急に改善すべきだと判断した」としている。

 同協会によると、従来はエビの大きさによって、小さい順に「芝エビ」「車エビ(大正エビ)」「伊勢エビ」の主に3種類で表記していた。今後は「車エビ」については「大エビ」と表記するよう求めた。また「伊勢エビ」は国産のみ「伊勢エビ」と記す。「芝エビ」や「車エビ」の表記は、本来のシバエビやクルマエビを使っている場合に限られるとしている。

 同協会によると、1964年の東京五輪の際、大手ホテルが中国語で「むきエビ」を意味する蝦仁(シャーレン)を「芝エビ」と表記。当時はむきエビ用の小エビとして、東京湾の芝浦で取れたエビが多く出回っていたためだという。現在は芝浦で取れる「芝エビ」は希少で高価だという。

 同協会の朝倉孝和事務局長は「(一部で芝エビとして使われた)バナメイエビなどを『芝エビ』と呼ぶと思い込んでいる料理人の認識と、消費者の理解とのギャップがあった」と説明している。【前田洋平】

 

 ……で、食品表示偽装云々がメディアを賑わすことが増えてきたわけですが、その辺を受けてか叩かれる前にと、中国料理業界では慣例的なエビの呼称を改めると発表したようです。今まで小さいエビは「芝エビ」と呼んでいたのを止める、と。焼肉業界でも似たようなことがあったでしょうか。赤身は全てロース、脂身の多いところはカルビと呼ぶみたいな業界の慣例がどうこうという話も過去にはあったと記憶しています。他にもどうでしょう、シシャモを頼むと99%以上の確率でキュウリウオもしくはカペリンが供されるはずですが、そうした慣習的呼称もどうなんだろうと思わないでもありません。

 そして民主党の野党気取りや野党扱いも、偽装みたいなものではないかと。確かに民主党は国政における与党であった時代においてなお野党気質を強く感じさせるものではあった、自らが責任政党であることを忘れて「アイツのせいだ」「それもこれも官僚が悪い」と醜い言い逃れに徹するケースが目立ちました。そうは言っても政策面でどれほど現・与党と対抗しているのやら。まぁデフレ促進を掲げるのならいざ知らず、同じ方向を向きながら単に主導権争いで駄々をこねているだけではないのかと。そして繰り返しになりますけれど、地方自治体では自民党と連立を組んでいることの方が普通であるわけです。それでいながら選挙の時は、与党への批判票を恥知らずにも掻っ攫おうとする――こうした欺瞞こそメディアの批判に晒されてしかるべきものと私は考えますけれど、むしろ民主党を野党扱いする「偽装」に荷担している報道機関の方が多く見えるのが何とも。

 

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