非国民通信

ノーモア・コイズミ

根拠はあるのか

2013-11-29 22:55:41 | 社会

都教育委:英語の先生、留学必修 来年度、指導力強化へ(毎日新聞)

 東京都教育委員会は来年度から、都内の公立中学と高校で英語を教える採用3年目の若手教員約200人全員を、3カ月間海外留学させる方針を決めた。2020年東京五輪を控え、英会話などコミュニケーション能力を育てる授業を強化するのが狙い。教員の海外生活を「必修」とするのは極めて珍しいという。

 公立校の英語教員になるのに海外に行った経験は問われず、全国的な留学制度もない。都教委では中堅(31〜42歳)の英語教員と教育委員会職員を対象にした1年間の留学制度があるが、派遣枠は年間で4人分しかなかった。

 しかし、今年4月から完全実施された高校の新学習指導要領は「英語の授業は英語で行うことが基本」と明記。現場は文法重視からコミュニケーション重視への指導法の転換が求められるようになった。そうした背景に9月の五輪開催決定が重なり、留学制度の大幅拡充を決めた。

 都教委によると、留学先は英語圏の大学など。英語を母国語としない生徒を指導するための資格取得を課し、英語だけの授業運びや、活発なディベートを生徒に促す方法などを学ばせる。一般家庭へのホームステイも予定し、英語漬けの生活を徹底する方針だ。

 都の来年度予算案に、留学生の授業料や滞在費など計約6億円を要求した。都内の公立校英語教員は約3300人おり、15年程度で同じ人数が留学する計算になる。派遣期間中は非常勤講師などの配置で対応する。【和田浩幸】

 

 とりあえず年間で6億円ほど投じて英語教師を3ヶ月ほど海外留学させる企てがあるそうです。3ヶ月というのも微妙な話ですが、本人の英語力向上にとってはさておき、「英語を教える能力」についてはどうなのでしょうか? 既に実績として中堅の英語教員と教育委員会職員を対象にした1年間の留学制度があるとのこと、派遣枠が年間で4人しかないと伝えられていますけれど、ともかくこれまでの留学実績がある以上は、その「結果」を問わねばなりません。英語圏に留学した英語教師は、日本の英語教育において十分な成果を上げたのでしょうか? 実績を元に「留学経験によって教員の『英語を教える能力』は顕著に上昇する」と言うのであれば、留学の必修化も意義があるのかも知れません。単純に「英語圏で英語漬けの生活を送れば英語が上手くなるだろう」みたいな安易な思い込みに基づいた決定でなければいいのですが。

 まぁ、留学すれば学力はともかく「箔」はつきますね。留学して何を学んだのかまではなかなか問われない一方で、留学経験の有無がアピールポイントになるのは経験的にもよくわかります。とにかく日本以外のどこかヨソの国に留学してきましたと言えば、格好は付くものです。ただこの辺は日本企業の採用担当者が重んじる学歴――というより「学校歴」のようなもので、雇う側の怠慢を助長するものであるように思います。採用後にグダグダしても、「○○大学の出身だから」と言い訳が立つのと同じで、いざ採用した教師の「英語を教える能力」に問題が発覚したとしても、「英語圏に留学していたので十分だと思った」みたいに弁解できる、そういうものなのではないでしょうか。

 なお新学習指導要領には「英語の授業は英語で行うことが基本」と明記されているとのこと。確かに日本では、広くそう信じられています。でも、本当に「英語で行うことが基本」なのでしょうか。大学ではイタリア人の先生にイタリア語を教わったり中国人の先生に中国語を教わったりもしましたが、授業は日本語でやってました。入門レベルを通り越して本格的に学びたければ話は別なのかも知れませんが、最初からフランス語で授業とか、最初からドイツ語で授業というのでは、むしろ教育の質を落とすのではないかという気がしないでもありません。

 それがどこまで一般的なのかはさておき、研究室で知り合ったロシア人は、ロシア語で英語を教わったそうです。あるいはメキシコで日本語を教えることになった知人もいるのですが、スペイン語で日本語を教えているとのこと。そう言えばアフリカ等の教育では出身部族毎に言語が違うにもかかわらず、強引に統一言語での教育を試みて失敗が相次いだなんて話もありますね。本当に、「英語の授業は英語で行うことが基本」なのでしょうか。日本語(母国語)で英語を教えた方が手っ取り早い、より質の高い教育ができるような気がするところです。

 上述のメキシコに行ってしまった知人ですが、日本国内で日本語講師をやっていた頃もありまして、その当時は「日本語で日本語を」教えていました。メキシコではスペイン語で日本語を教えているのに、です。そしてアメリカでは「英語で英語を」教えているケースが多いとすれば――この理由はなぜでしょう。日本語は日本語で教えるのが最も早いから、英語は英語で教えるのが最も効率的だから、そう言えるだけの根拠があるのなら結構なことですけれど、実際はどうなのやら。

 現実問題として、諸々の母国語を持つ外国出身者に日本語を教えようにも、相手が理解できる言語に教育者側が対応できないわけです。つまり、中国出身、韓国出身、フィリピン出身、ルーマニア出身の生徒に何語で日本語を教えればいいのか、そもそも日本人講師の多くは日本語以外の言語が巧みではないことも多いでしょう。選択肢は一つしかありません。すなわち「日本語で教えるしかない」と。アメリカでの英語教育も然り、英語以外はろくに話せないアメリカ人教師が、メキシコやヴェトナムやイランあるいはロシアから来た人々の雑居する教室では何語で英語を教えればいいのかと考えたとしても、選ぶ余地などあるでしょうか。英語で教える「しかない」のです。

 文法重視からコミュニケーション重視への指導法の転換が求められる云々とは大昔から連呼されてきたことであるように思いますが、そもそも日本の英語教育で文法がマトモに教えられているのかすら怪しいところです。体系的な理解を疎かにして「コミュニケーション重視」などと掲げたところで何を得られるのか、ましてや日本語ネイティヴ同士の間であってさえ、「コミュニケーション能力不足」として就業機会などから排除されてしまう人が多々いるわけです。わずか3ヶ月の「なんちゃって留学」と「英語の授業は英語で行う」ことでコミュニケーション能力が育つなどと、いったい何を根拠に言えるのでしょうか?

 

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