非国民通信

ノーモア・コイズミ

子供が絡むと息の荒くなる人は多いですが

2022-12-11 23:12:44 | 社会

 先日は静岡県裾野市の認可保育園で児童への虐待があったとして保育士が逮捕、園長まで起訴されるなんてことがあり世間を賑わせました。被疑者の名前だけではなく顔写真までもがメディアで大々的に掲載されたりもしていますが、どうしたものでしょうか。高齢者福祉施設や障害者福祉施設、入管の収容施設や刑務所でなどでの入所者虐待は頻繁に発生していますけれど、いずれも今回の園児虐待ほど大きく被疑者が晒されたことはないように記憶しています。

 人権意識が問われるのは、「悪い奴」を前にしたときです。清く正しい人に守られるべき権利があるのは当然のことながら、悪事を働いた被疑者にもまた守られるべき権利があります。ところが何かの契機に箍が外れて「何でもあり」になってしまうことはないでしょうか。何事も罪に応じて裁かれるべきであって、世間の怒りをかき立てた度合いに左右されてはならないはずですが、必ずしも実態はそうなっていないように思います。

 件の保育園で行われていたとされることは決して良いことではないにせよ、小中学校の児童間であれば日常的に行われて黙認されているレベルのことでもあるはずです。例えば東京オリンピック・パラリンピックの楽曲担当だった小山田圭吾氏は障害を持った同級生に対し、段ボール箱に閉じ込める、服を脱がせて裸にする、排せつ物を食べさせるなどしていたと自ら語っています。ところが「いじめ」という扱いになると不思議と法の裁きからは免れてしまうわけです。「いじめ」で許容される人もいれば、逮捕までされてしまう人もいる、世の中は不公平ですね。

 尊属殺、という概念があります。同じ殺人でも、相手との関係次第で罪の重さが変わってしまうわけです。尊属殺の考え方自体は今こそ批判的に捉えられていますけれど、それが本当に克服されているかは疑問に思わないでもありません。同じ暴行や脅迫でも、被害者の社会的な位置づけ次第で世間の反応が大きく異なってしまう、ろくに報じられることもなく忘れ去られることもあれば、連日メディアを賑わせては世間の晒し者にされることもある、それを今回の保育園の事件は体現しています。

 虐待した相手が同級生だったなら、それは「いじめ」と呼ばれて加害者が裁かれることはありません。虐待した相手が障害者や高齢者であったなら、職員を取り巻く過酷で報われない環境への同情も多少は出てくることでしょう。虐待した相手が在留資格のない外国人や受刑者であったなら、被害者側に問題があったのだろうと言い募る人も少なくないはずです。ただ虐待した相手が小児であるとなると、人々は一斉に拳を振り上げメディアも司法も張り切ってしまうわけです。

参考:地獄保育園①(清野のブログ)

 一世代前はもっと子供の扱いなんてぞんざいでしたし、戦前の生まれなら弟や妹の世話は年長の子供の仕事(ヤングケアラー!)みたいなのが当たり前だったはずです。しかるに現代は少子化が大きく進んだこともあって、希少価値が高まったせいか「子供を大切に」という考え方が深く根付いています。今や子供こそが「尊属」であり、何よりも優先して扱われるべきものとの意識が社会全体で共有されていると言えるでしょう。ただ「子供を大切にしろ」という声ばかり大きくなる一方で、実際に子供の世話をする人の地位はどうなのでしょうか?

 亭主一人の収入で家族を養えるような高給取りが減少し、女性の就労が飛躍的に増えていく中、少子化と反比例する勢いで託児需要は増加していきました。私が住むような都内へのギリギリ通勤圏は子育て世代の流入も多く、次から次へと保育園が新設され、いずれ私の住居の隣にも建てられる可能性を否定できない状況です。ただ保育園が増加する一方で保育士の不足は一貫して指摘されているところ、保育士の資格保持者は十分な数がいるらしいのですが……

 保育士の社会的な需要は非常に高い一方で、その給与水準の低さもまた広く知られています。介護士も保育士も社会から大いに必要とされているわけですが、だからといって報酬が高くなるものではないのでしょう。賃金が低ければ士気も低くなる、払われる対価が少なければ職務に対する責任感だって減少するのが当然ですけれど、人件費抑制が30年来の国是となっているの我々の社会でも特に給料の安い職場であり続けている以上、そこに歪みが生まれるのは当然です。

 「子供を大切にしろ」と、いきり立つ人は実に多いです。しかし実際に子供に接する人を大切にしている人はいるのでしょうか。むしろ「子供のために」を錦の御旗として、子供に接する人に犠牲を求めているばかりではないかと私には思われます。自分自身が子供を大切にするのではなく、実際に子供に接する「他人」に向けて「子供を大切にしろ」と要求しているだけの人が実際は多数派を占めている、結果として子供を育てることの負担もまた重くなっているところがあるはずです。

 離れて住む親のことは愛せても、同居して介護する親となると苛立ちを感じる──適切な距離があるかどうかで良いものが見えるか、悪いものが見えてしまうかも変わってくることでしょう。子供も然りで、離れて眺めれば天使に見えても、四六時中つきっきりでいなければならないとなれば悪魔に見えてくることもあるわけです。ところが子供に接する機会の減った現代となると、後者の感覚を理解できない人が増えているように思います。昼夜を問わず子供の泣き声、叫び声に晒される生活をしている人と、自分の気が向いたときや余裕のあるときに子供を眺めているだけの人、より実態を理解しているのは前者ですが、多数派として世論を構成しているのは後者なのです。

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