いわゆるネトウヨ諸兄の抱く被害妄想の逞しさには常々感心させられてきたのですが、その無から有を生み出す創造性や奇想天外な発想をもっと有効活用できないものかと、たまには思ったり思わなかったりします。存在しないものを「ある」と信じ込めるその妄想力の高さは私には真似の出来ない世界ですし。
……で、そんな類い希な妄想力を創作行為に結実させている例として、例えば筒井康隆が挙げられますね。ありもしないものをあたかも実在するかのように描き出す創造性、論理的な思考からは決して生まれえない型破りな展開は、妄想力のもたらした成功例として位置づけられるでしょう。そんな筒井康隆の「プロの妄想を見せてやる」とばかりのファンタジー溢れるコラムがこちらです。
出来れば上のコラム、「嫌煙」を「反日」に、「愛煙」を「愛国」に置き換えて読んで欲しいのです。そうすれば、この典型的な「愛煙家の論理」が驚くほど「ネトウヨの論理」に酷似していることがおわかりいただけると思います。それがルーツであるとは考えにくいところもありますが、そのロジックの類似性を意識することは、両者を読み解く上での鍵になります。
田中真紀子と小泉純一郎という性格的には似通った2人を時々例に出すのですが、両者をともに嫌いな人は、その手のやり方に賛成できない、両者をともに支持する人は、2人に共通するスタイルに共感すると考えられます。一方で「小泉純一郎は好きだが田中真紀子は嫌い」であれば、与党が好きで野党が嫌い、「田中真紀子は好きだが小泉純一郎は嫌い」ならば、野党が好きで与党が嫌い、論法の是非よりも「度平らの陣営に属しているか」で態度を決めると言えます。
そして同じことが筒井康隆の喫煙者の論理とネトウヨの「愛国・反日の論理」でも言えそうです。この手のロジックや被害妄想、陰謀論に反吐が出るのなら、両者をともに退けるでしょう。一方で両者共に共感する人もいるかも知れません、それはそれで一貫性があります。しかるにもう一つのパターン、前者には共感するが後者は退ける、あるいはその逆もいるでしょう。つまり「自分と同じ陣営に属している」と感じられれば、内容の審議は二の次で評価してしまうパターンですね。反共でありさえすれば軍事独裁政権でも支援してきたのと同じです。
たばこの煙払い、鼻折られる=嫌った学生殴った男逮捕-埼玉県警(時事通信)
さいたま市の路上でたばこの煙を嫌がるそぶりを見せた同市の男子大学生(23)の顔を殴り、鼻の骨を折る重傷を負わせたとして、埼玉県警浦和署が同市のアルバイトの男(22)を傷害の現行犯で逮捕していたことが23日、分かった。
男は「(学生の)そぶりに腹がたった」と供述しているという。
調べによると、男は22日午後9時50分ごろ、さいたま市南区別所の路上で喫煙していたところ、通りかかった「嫌煙派」の大学生が自分の顔の前で手を振り、煙を払ったのを見て立腹。大学生ともみ合いになり、顔を殴った。
「嫌煙」などとレッテル貼りに勤しむ時点で「反日」とか真顔で口にしている連中と同レベルの印象しか受けないのですが、まぁこういう事件もあります。たまたま気の短い人だったのかも知れませんが、煙を払われた程度で殴りかかるとは、一体何を見たのでしょう? 反日勢力に脅かされていると信じている人は、外国の些細な動きにも内政干渉や侵略行為を見て取るようですが、この加害者も同じ様な夢を見たのかも知れませんね。
参考、
No Smoking!
靖国神社への首相参拝に対する中国や韓国の態度を「内政干渉」と批判する櫻井よしこは、韓国の前政権の北朝鮮への政策をやたら批判しています。どっちが内政干渉だよと思いますが、櫻井みたいな馬鹿には、内政干渉かどうかは、自分がその政策を支持するかどうかで決まるのですよね。頭が悪くて幸せな女です。
アジア諸国からの意見は内政干渉、アジア諸国への意見は「正論」なんでしょうね。おめでたいと言えばおめでたいですが、この辺の人に結構な発言力を持たせているこの社会もまた何とも。
愛煙家と称するのは単なるニコチン中毒です。
中毒というと病人だから他人からの庇護を受けるのは当然だとわがままにも自己中心的に主張するから余計困りものです。
昼にレストランでお酒を1日飲み続けている人間はほとんどアルコール中毒なんだよと話していたら隣の席のひとりが恨めしげな目線でジーと見続けていた時がありました。生のジョッキを手にしていました。迂闊に口もきけない社会です。
そういうのは気が弱い人間に多いのですが、何故それが強気になるのかと疑問が深まります。昔バスに乗りガソリンにライターで火を付けて乗客を大勢焼き殺して精神病の判定を受けて罪を問われなかったのが居ました。乗る前にお酒を飲んでいたそうです。しかし何で購入したガソリン入りの缶とライターを持ってなのか、意味がわかりません。殺され損ですね。
あっ、ネットウヨ的なのはここのところは読まないでくださいね。
これは病気だからと医者や精神科の権威が指定すると何でも許される気持ちになりがちです。他人がちょっとでも中毒にかかる側の責任を指摘すると開き直って逆襲してくる場合があるのです。たんに医者や権威が自分の収入を確保してお金を儲けたいために気安く病気の範囲を広げている場合が多いだけなんですがね。
他人に迷惑をかけてもめげることのない人間が、更に攻撃的になって増加傾向なのはどうしてなんでしょう。自分をしっかりと自己形成し人様に迷惑をかけないように責任感をもった人間になるようにというだけで、それは強制で病気のことを考慮しない、病気をより悪化させる行為だと非難されるのです。
困ったなぁ。では。
レッテルを貼るという行為は、特徴を持ったある集団を類型化して論ずるのに非常に便利です。さらに類型化された部分のみに限定すれば、対象を攻撃するのにも有効でかつ言われるほどアンフェアではないと考えています。
そこを踏まえて、非国民通信さんの「ネトウヨ」と筒井氏の「嫌煙」というレッテル貼りをむしろ同種と見てどちらにも共感を覚える立場から言うと、レッテル貼りの何が悪いという意味で今回の記事に疑問が涌きます。
ご自身の「ネトウヨ」というレッテル貼りは何故問題とならないのでしょう?
う~ん、でも本当に病気の人に対して無理解であり、病人が弱者であることを逆手にとって悪事を働いているかのようなイメージを抱くのは、むしろネトウヨ諸兄の方に多いと思いますよ。むしろここでの「愛煙家」は、自身に阿らない人々に「嫌煙家」というレッテルを貼り、「嫌煙家」を治療の必要な欠格者と見なしているわけです。もっとも、自身を被害者の側に位置づけることで自らを正当化しようとするそのロジックは、妄想上のエセ弱者にも共通するでしょうけれど。
>みーとくんさん
ストーカー行為でどこぞやの判事が捕まりましたが、容疑者を「ストーカー」と呼ぶのもレッテル貼りですかね? 何事にも不当なものと正当なものがありますが、その是非を問わずして何事も同列に見なすのは、悪しき相対主義の典型とも言えます。喫煙者を排斥しようとしている人を「嫌煙」と呼ぶのならまだしも、単に自分が気にくわない相手を「嫌煙家」と罵った挙句、疑似科学や陰謀論、被害妄想で身を飾り立てて恥じない輩と一緒にしないでくれませんか。
そういう所も架空の「反日」勢力を作り出すのが好きな人々と似ているのかもしれませんね。
そもそも「嫌煙」という言葉が良くない気がします。これも元々の意味は違っていたようですが、字面から受けるイメージが良くないですね。そして現在の一般的な用法も良くない、いつでもどこでも他人に煙を吹き付けるのが当たり前だと思っているような輩に疑問を投げかけるだけでも、「嫌煙」認定ですから。それでも自説に従わない相手を「反日」ならぬ「嫌煙」と呼んで憚らないような連中にしてみれば、「自分を不当に脅かす侵略者なんだ!」と言うことになっているようで、まぁ大した被害妄想家ぶりです。
しかし、私とて「最近の若い者は…。」という言葉に過剰反応する悪癖があるわけです。「被害者意識はほんのちょっとしたことで喚起される」「開き直りに似た「狙われている」「私は正しい」意識は危険なサイン」という事は頭に入れて生活しておいたほうがよさそうです。
自分は悪い奴らに脅かされている、だから自分は正しいと、そういう被害妄想に基づいた自己正当化があるのですよね。実際のところ、筒井康隆なんぞは嫌がる相手に煙を吐きかけたことを自慢げに語るような明白な加害者であるわけですが、それでも被害者意識が己の正しさを確信させてやまない、こうした陥穽に自分が陥らないよう、反面教師とすべきでしょうか……
ただ、誤解されているようなので少々補足。
私は、レッテル貼りが悪いと言っているわけではなく、使い方を間違えなければいいと思っていますし、そう書いています。だからこそ、その是非を問わず(具体的に筒井氏の文章については何も書いてませんよね)に同じレッテル貼りといって断罪するような姿勢に疑問がわいたのです。言ってることは非国民通信さんの私へのコメントと同じかと。
(多分筒井氏の書いた内容についての評価が違うだけですね。個人的には「被差別者云々」のくだり以外は、筒井氏の論に概ね賛同できたもので。)