個、組織、国家、世界。これら「個」が形成する「集合」のパターンの推力は、それぞれに異なるパースペクティブに作用する単位時間によって、マクロな動態として得ることが出来る。
個人の行動・技能・組織力の結果が、組織の生産性・安定性・影響力に波及し、国家・民族レベルの規模にまで力学を波及させていく。そして「個」と「組織」のシステマに対して循環する影響力が顕在化し、相互作用させるに有効な単位時間があり、対象となる「群」の規模に依存した閾値ごとのエネルギー準位を伴う。
より「大きな群」の相転移には、より大きな単位時間とエネルギーが併存する。
より「小さな群」、あるいは「個」の変化には、それを「内包する群」の動力学的フィードバックの中で絶えず微視的な作用を引き起こす閾値を超えるエネルギーが注がれている。
依って政治とは、「個」個別の基盤たる「群」の規模ごとに働く実効時間の作用を評価して、有為な介入が可能であるように制御を試みるシステムに他ならない。
たとえば闘争のシステムであるが、「平和」が世界合意であると仮定して、武装解除どころか、核均衡のストレスの中、軍備増強が促されている要因は、それが権力構造拡大の力学である以上に、「軍事」というパラダイムに波及する実効性のある単位時間が、未だ過去の力関係の写像を引きずっているからであり、資本関係・思想・民族間など、あらゆるレベルにおける「群」の規模ごとに統合し難い「作用時間のズレ」が生じる為である。
象徴的な例としては「敵意の反射」がそうである。あなたが銃を持っていて、向かい合った相手に銃を突きつけられている。相手が何らかの要因で銃を降ろした瞬間、あなたの取る行動は自己防衛のために銃を構えるか降ろすかだ。そこに至る経緯にもよるが、「決定的な瞬間」の判断を作用する要素は、自己保存本能の反射により左右されやすい。
ここで致命的なのは二者間のディスコミュニケーションであるが、現実世界における多体間の相互作用においては遠大なほど複雑で、人の意思は到底及ばざるように思える。しかし肝要なのは「群の意思決定」に波及する一人一人の意志の持ちようなのである。
※ これは「知能」の定義に関わる認知発達の要素でもある。人間は環境適応の手段として「思考」の複雑化を進めたが、そもそも思考活動の複雑化は「群」の最適進化とは短絡しない。例えばタンザニアのある地域のライオンの群は、あるがままの知能で、社会のもたらす人間の生活行動の変化に適応し、その安全を脅かし続けている。
ライオンは、ただ自身を組み入れているシステムに従って「群」の構成要素を為していれば、群それ自体の振る舞いによって現状の最適解を導き出していく。ライオンの不幸は、人間を襲うという行為そのものが、自己保存の反作用としてリスクを還流しているという事実を把握出来ていないことだ。そしてこの地球において、適応環境の変化や闘争によって脅かされている人間にも同じことが言えるだろう。
『集合知』から『集合意思』へ。
問題は、世界秩序を脅かし、「群」の摂理と生成を瓦解する「作用時間のズレ」を、個々に有益な形で解消するシステムの構築には至っていないということだ。今や地球上をインターネットが網羅し、その空隙は僅かばかり埋まっているかのように見える。
或は、そんなシステムなど何処にもないのかもしれないし、それが自然の摂理に適うことであるという保証もない。現在は政治が、過去には宗教がそれを託され、結果として闘争が制御されていないのは、我々が既にそのやり方で、我々を突き動かす「時間」の流れ方に適応しているということも考えられる。事実、何者かの「生産行動」とは、どんな形であれ、何者からの「略奪」の裏返しに他ならないのだから。
そして「ファンド」が拡大した現在の資本経済は、時間軸を縦に取った「未来」の資源を食い潰し始めている。同時に、闘争の力関係(バランス)は未来に向かって更に強い拘束力を放っているのである。
バラバラなクラスタ(群)の意志反映の作用時間ベクトルに、非同期でありながら定向性と明示性を齎すソリューション。それこそが世界秩序を覆うリスクを減算する取っ掛かりであると私は信じている。それにはどういったやり方が考えられるか。今こそ議論を開始する必要性が問われるべきだろう。
個人の行動・技能・組織力の結果が、組織の生産性・安定性・影響力に波及し、国家・民族レベルの規模にまで力学を波及させていく。そして「個」と「組織」のシステマに対して循環する影響力が顕在化し、相互作用させるに有効な単位時間があり、対象となる「群」の規模に依存した閾値ごとのエネルギー準位を伴う。
より「大きな群」の相転移には、より大きな単位時間とエネルギーが併存する。
より「小さな群」、あるいは「個」の変化には、それを「内包する群」の動力学的フィードバックの中で絶えず微視的な作用を引き起こす閾値を超えるエネルギーが注がれている。
依って政治とは、「個」個別の基盤たる「群」の規模ごとに働く実効時間の作用を評価して、有為な介入が可能であるように制御を試みるシステムに他ならない。
たとえば闘争のシステムであるが、「平和」が世界合意であると仮定して、武装解除どころか、核均衡のストレスの中、軍備増強が促されている要因は、それが権力構造拡大の力学である以上に、「軍事」というパラダイムに波及する実効性のある単位時間が、未だ過去の力関係の写像を引きずっているからであり、資本関係・思想・民族間など、あらゆるレベルにおける「群」の規模ごとに統合し難い「作用時間のズレ」が生じる為である。
象徴的な例としては「敵意の反射」がそうである。あなたが銃を持っていて、向かい合った相手に銃を突きつけられている。相手が何らかの要因で銃を降ろした瞬間、あなたの取る行動は自己防衛のために銃を構えるか降ろすかだ。そこに至る経緯にもよるが、「決定的な瞬間」の判断を作用する要素は、自己保存本能の反射により左右されやすい。
ここで致命的なのは二者間のディスコミュニケーションであるが、現実世界における多体間の相互作用においては遠大なほど複雑で、人の意思は到底及ばざるように思える。しかし肝要なのは「群の意思決定」に波及する一人一人の意志の持ちようなのである。
※ これは「知能」の定義に関わる認知発達の要素でもある。人間は環境適応の手段として「思考」の複雑化を進めたが、そもそも思考活動の複雑化は「群」の最適進化とは短絡しない。例えばタンザニアのある地域のライオンの群は、あるがままの知能で、社会のもたらす人間の生活行動の変化に適応し、その安全を脅かし続けている。
ライオンは、ただ自身を組み入れているシステムに従って「群」の構成要素を為していれば、群それ自体の振る舞いによって現状の最適解を導き出していく。ライオンの不幸は、人間を襲うという行為そのものが、自己保存の反作用としてリスクを還流しているという事実を把握出来ていないことだ。そしてこの地球において、適応環境の変化や闘争によって脅かされている人間にも同じことが言えるだろう。
『集合知』から『集合意思』へ。
問題は、世界秩序を脅かし、「群」の摂理と生成を瓦解する「作用時間のズレ」を、個々に有益な形で解消するシステムの構築には至っていないということだ。今や地球上をインターネットが網羅し、その空隙は僅かばかり埋まっているかのように見える。
或は、そんなシステムなど何処にもないのかもしれないし、それが自然の摂理に適うことであるという保証もない。現在は政治が、過去には宗教がそれを託され、結果として闘争が制御されていないのは、我々が既にそのやり方で、我々を突き動かす「時間」の流れ方に適応しているということも考えられる。事実、何者かの「生産行動」とは、どんな形であれ、何者からの「略奪」の裏返しに他ならないのだから。
そして「ファンド」が拡大した現在の資本経済は、時間軸を縦に取った「未来」の資源を食い潰し始めている。同時に、闘争の力関係(バランス)は未来に向かって更に強い拘束力を放っているのである。
バラバラなクラスタ(群)の意志反映の作用時間ベクトルに、非同期でありながら定向性と明示性を齎すソリューション。それこそが世界秩序を覆うリスクを減算する取っ掛かりであると私は信じている。それにはどういったやり方が考えられるか。今こそ議論を開始する必要性が問われるべきだろう。