音楽と夢は何処まで似ているか
今日、「Classic」音楽の礎を為す物は、もう2-300年前に書かれた楽譜から、古くは千年も前の石碑に刻まれた記号の解釈によるものなど、伝わる形は様々だが、それらは絵画や建造物とは違って、演奏者が記号というフレームにエネルギーを注ぐ形で、一瞬一瞬を「生きた信号」として励起させ、ある意味では、過去のエネルギー状態への可塑性と再現性を保持した反復行為によって、現代という文脈に上書きされていく。
(※ 視覚芸術と音響芸術との差異は、その記号が励起させるエネルギーの関係性を、時間軸の何処と何処に割り振るかという部分にあり、視覚芸術の場合は、表現物自体に依存する割合が高い。対して音響芸術は「出力形式」を触媒とするため、特定の時間と時間との間のエネルギーの過渡状態を取る。但し、ここではオーディオ等の概念を取り除く。)
だからといって、過去に作曲された「音楽」の総てが、作曲者自身の手に拠る一次的資料に基づいて演奏されるわけではない。それらは絵画や建造物と同じく、古びて、欠損し、現代の文脈において説得力のある意味を持つには、ある程度の補修や加筆といった介入を必要とする。
ところで「芸術行為」とは、感情に作用するメッセージという意味が第一義的にあり、それらに付随する考証や理論形成といったものは、メッセージの複雑化した情報の保持の為に必要となる副次的な手順に他ならない。私たちが人間という存在として抱く感情は、文化的な差異はあるものの、太古からのある種の相似性を保ったものであるから、過去に呼び交わされた記号が、現代で言う「出力」されることに共鳴を得ることが可能なのだ。
この時、「音楽」という主体が作用を齎す上に置いて、「言語」のような厳密なシンタックスを必要としないことに注目しなければならない。「言語は思考を規定する」が、「音楽は感情に規定されている」ものである。なぜ人が音楽に感動できるのかというと、我々は、その音楽によって奮い起こされる感情を知っているからで、その感情を通じて得た自身の経験と、過去の作曲者が表現を行った感情が、時系列を超えた関係性によって結びつけられているからだ。
またこれは、「音楽という主体」そのものの実在性に関わるものである。自明の通り、音楽は時間推移に乗った刺激の連続性に伴う感情作用に基づいている。一音一音の狭間にある無音こそが刻まれている対象と言い換えることも出来よう。
これについてブーレーズは、一つ一つの音が生じるリズムを、建築の「柱」という存在に喩えている。柱の立っている間隔、位置関係に「音」という時間軸を置き換えることによって、そこに空間を計る数理的な干渉が適用できるようになる。
「空間構造」に対する生命現象の反応は、おそらく人間が抱く感情として最も原始的で、その基礎を為す要素を構成していると思われる。空間は、その場所で適応行動を取る主体の時間の刻み方そのものを規定する為だ。こうしたことから音楽を為す一つ一つの旋律やリズムの塊は、石に刻まれたメッセージというよりも、実は石から切り出された柱そのものに近い。
音楽のような「刺激の反復行為」に似た人間の生理現象の一つに、睡眠中に見る「夢」が挙げられる。夢の中で目にする光景の一つ一つ、たとえば色彩や記号、話の脈絡などは、心理学的にはどれも重要な意味があって、主観者の現実の経験から投影されたものであるとされている。
ただし夢には反復の再現性はなく、それを忠実に記録する為の手段も、まして実生活において実効性のある文脈に熾す意義も、今のところ見出されているとは言い難い。
多くの、いや総ての夢は、一度見られただけで忘れ去られるか、誰かの記憶の中で燻り続けるのみである。しかし、それが一人一人の感情や、日々の蓄積を通じて文化に及ぼす作用は決して小さいものではない。そして「夢」に対する科学的な研究は未だ黎明期を迎えていない。
夢の構成要素の一つ一つに、現実の投影を兼ねた作用があると述べたが、同様のことは音楽にも言える。音楽の音色やメロディは、文化的技術的な制約に拠って、半ば慣習的に用いられているものの、その多くは「現代の文脈」と「個人の感情経験」の相互作用、フィードバックによって自律的に進化を続けている。
「絵画」や「写真」が、「何処かの光景を見る」という信号的意味を枠内にトレースしているのに対し、「音楽」は、鑑賞者自身の枠内に、音と音との関係性のある構造を作り出す作用を付与している。これは建造物内を移動してマッピングしていく感覚により近く、その柱の素材に手を触れてみることもあるだろう。
現代人がヴァイオリンの音色を「人の声」の代替であるとは感じないように、ジプシーの草笛をヴァイオリンで再現することもあるし、ラッパが神の楽器であるとも思っていない。しかし過去には、器楽の音色が信仰的、伝承的意味合いと関係づけられることは少なく無かった。
然し乍ら、「当時の人が聴いたままの音色」で音楽を再現することが、民族音楽はもちろん、クラシックにとって考証的な意味以上の何があるのかというと、実は最も重要な「感情への作用」という点については疑わしいと言わざるを得ない。
なぜなら、記譜を伴わない伝承音楽の殆どが、「演奏されていた当時から」ピッチや器楽構成までの再現性を厳密に定めていたとは限らないという、余りにも当然過ぎる理由に拠る。
厳密な調性を要求するクラシックについては幾分事情が異なるが、たとえばバロック時代には、楽器のピッチが村単位で違っていたことも今となっては知られているし、同じアンサンブルでも演奏が進む毎に変化することも多かった。そして今主流となっているチューニングよりも、平均してもっと高いピッチで演奏されていたという。
この頃から、音楽が感情に及ぼす作用として最も重視されていたのは「調性」である。ピッチが違えば当然音色は異なるものの、任意の楽器が置かれる文脈の秩序を保つ上では犠牲になることもある。現代のオーケストラでは、個々の楽器のピッチを態々合わせるよりも、全音について移調を行った楽譜での演奏が行われることがあるが、作曲者が意図した調性が変わってしまうことへの誹りは免れない。
こうしたピッチの時代様式の研究や、古楽器の復興が比較的進んで来たのは1980年代のことで、それ以前から「過去の音楽」の再現性については態度を二分する論争が続いている。オットー・クレンペラーなどは、過去の様式に拘ることを良しとしなかった巨匠の一人であり、作曲者の世界観と精神性に更に磨きと進化を齎すが如く、堂々と近代の様式に従うことで、偉大な音源の数々を遺している。
音楽自体は再現されるものであるが、それによって齎される感情は再現されるのではなく、その瞬間瞬間に齎されるものだ。表現者が作曲するにあたって世界観を構築する時、一つ一つの器楽構成や音色が、彼の記憶の何処から呼び覚まされて、旋律や調性を形作るのか。紛れもなく、それは夢と共の領域にあるのである。
□ from my twitter log
□ 前奏曲とメイン・タイトル
カールベーム指揮のワーグナー前奏曲集は未だに私にとっての至宝の一つ。仰々しさだけではない、楽譜に対する誠実な姿勢と精緻な組み立てが魅力。ところでこのオーヴァーチュアという発想、近代の映画ではエンドタイトルに代わられることが多いが、サントラではメインタイトルとして再編曲されることも
今の映画音楽,所謂「スコア」が映像の要求に答える為のものであるのに対し、オペラにおいて前奏曲が果たしている役目は、最初に主題を提示しておくことで、観劇が進むにつれて大きく感情的な作用を及ぼすことにある。
もちろん今の映画の多くもメインタイトルをクレジットともに劇中序盤に据えているが、如何に音楽が映像を超える仕事をしても、一個の楽曲として完成した形を鑑賞時の感動と同期させるのは様々な制約から無理が多い。サントラ限定のメインタイトルは、生産的な意味合いよりも作曲者の妥協が垣間見える
身も蓋もない言い方をすると、映画音楽っていうものは、そういうものでいいと思う。(笑)敢えてアンバランスな物言いをしてみたり。無い物ねだりって大切。(^O^)/
今日、「Classic」音楽の礎を為す物は、もう2-300年前に書かれた楽譜から、古くは千年も前の石碑に刻まれた記号の解釈によるものなど、伝わる形は様々だが、それらは絵画や建造物とは違って、演奏者が記号というフレームにエネルギーを注ぐ形で、一瞬一瞬を「生きた信号」として励起させ、ある意味では、過去のエネルギー状態への可塑性と再現性を保持した反復行為によって、現代という文脈に上書きされていく。
(※ 視覚芸術と音響芸術との差異は、その記号が励起させるエネルギーの関係性を、時間軸の何処と何処に割り振るかという部分にあり、視覚芸術の場合は、表現物自体に依存する割合が高い。対して音響芸術は「出力形式」を触媒とするため、特定の時間と時間との間のエネルギーの過渡状態を取る。但し、ここではオーディオ等の概念を取り除く。)
だからといって、過去に作曲された「音楽」の総てが、作曲者自身の手に拠る一次的資料に基づいて演奏されるわけではない。それらは絵画や建造物と同じく、古びて、欠損し、現代の文脈において説得力のある意味を持つには、ある程度の補修や加筆といった介入を必要とする。
ところで「芸術行為」とは、感情に作用するメッセージという意味が第一義的にあり、それらに付随する考証や理論形成といったものは、メッセージの複雑化した情報の保持の為に必要となる副次的な手順に他ならない。私たちが人間という存在として抱く感情は、文化的な差異はあるものの、太古からのある種の相似性を保ったものであるから、過去に呼び交わされた記号が、現代で言う「出力」されることに共鳴を得ることが可能なのだ。
この時、「音楽」という主体が作用を齎す上に置いて、「言語」のような厳密なシンタックスを必要としないことに注目しなければならない。「言語は思考を規定する」が、「音楽は感情に規定されている」ものである。なぜ人が音楽に感動できるのかというと、我々は、その音楽によって奮い起こされる感情を知っているからで、その感情を通じて得た自身の経験と、過去の作曲者が表現を行った感情が、時系列を超えた関係性によって結びつけられているからだ。
またこれは、「音楽という主体」そのものの実在性に関わるものである。自明の通り、音楽は時間推移に乗った刺激の連続性に伴う感情作用に基づいている。一音一音の狭間にある無音こそが刻まれている対象と言い換えることも出来よう。
これについてブーレーズは、一つ一つの音が生じるリズムを、建築の「柱」という存在に喩えている。柱の立っている間隔、位置関係に「音」という時間軸を置き換えることによって、そこに空間を計る数理的な干渉が適用できるようになる。
「空間構造」に対する生命現象の反応は、おそらく人間が抱く感情として最も原始的で、その基礎を為す要素を構成していると思われる。空間は、その場所で適応行動を取る主体の時間の刻み方そのものを規定する為だ。こうしたことから音楽を為す一つ一つの旋律やリズムの塊は、石に刻まれたメッセージというよりも、実は石から切り出された柱そのものに近い。
音楽のような「刺激の反復行為」に似た人間の生理現象の一つに、睡眠中に見る「夢」が挙げられる。夢の中で目にする光景の一つ一つ、たとえば色彩や記号、話の脈絡などは、心理学的にはどれも重要な意味があって、主観者の現実の経験から投影されたものであるとされている。
ただし夢には反復の再現性はなく、それを忠実に記録する為の手段も、まして実生活において実効性のある文脈に熾す意義も、今のところ見出されているとは言い難い。
多くの、いや総ての夢は、一度見られただけで忘れ去られるか、誰かの記憶の中で燻り続けるのみである。しかし、それが一人一人の感情や、日々の蓄積を通じて文化に及ぼす作用は決して小さいものではない。そして「夢」に対する科学的な研究は未だ黎明期を迎えていない。
夢の構成要素の一つ一つに、現実の投影を兼ねた作用があると述べたが、同様のことは音楽にも言える。音楽の音色やメロディは、文化的技術的な制約に拠って、半ば慣習的に用いられているものの、その多くは「現代の文脈」と「個人の感情経験」の相互作用、フィードバックによって自律的に進化を続けている。
「絵画」や「写真」が、「何処かの光景を見る」という信号的意味を枠内にトレースしているのに対し、「音楽」は、鑑賞者自身の枠内に、音と音との関係性のある構造を作り出す作用を付与している。これは建造物内を移動してマッピングしていく感覚により近く、その柱の素材に手を触れてみることもあるだろう。
現代人がヴァイオリンの音色を「人の声」の代替であるとは感じないように、ジプシーの草笛をヴァイオリンで再現することもあるし、ラッパが神の楽器であるとも思っていない。しかし過去には、器楽の音色が信仰的、伝承的意味合いと関係づけられることは少なく無かった。
然し乍ら、「当時の人が聴いたままの音色」で音楽を再現することが、民族音楽はもちろん、クラシックにとって考証的な意味以上の何があるのかというと、実は最も重要な「感情への作用」という点については疑わしいと言わざるを得ない。
なぜなら、記譜を伴わない伝承音楽の殆どが、「演奏されていた当時から」ピッチや器楽構成までの再現性を厳密に定めていたとは限らないという、余りにも当然過ぎる理由に拠る。
厳密な調性を要求するクラシックについては幾分事情が異なるが、たとえばバロック時代には、楽器のピッチが村単位で違っていたことも今となっては知られているし、同じアンサンブルでも演奏が進む毎に変化することも多かった。そして今主流となっているチューニングよりも、平均してもっと高いピッチで演奏されていたという。
この頃から、音楽が感情に及ぼす作用として最も重視されていたのは「調性」である。ピッチが違えば当然音色は異なるものの、任意の楽器が置かれる文脈の秩序を保つ上では犠牲になることもある。現代のオーケストラでは、個々の楽器のピッチを態々合わせるよりも、全音について移調を行った楽譜での演奏が行われることがあるが、作曲者が意図した調性が変わってしまうことへの誹りは免れない。
こうしたピッチの時代様式の研究や、古楽器の復興が比較的進んで来たのは1980年代のことで、それ以前から「過去の音楽」の再現性については態度を二分する論争が続いている。オットー・クレンペラーなどは、過去の様式に拘ることを良しとしなかった巨匠の一人であり、作曲者の世界観と精神性に更に磨きと進化を齎すが如く、堂々と近代の様式に従うことで、偉大な音源の数々を遺している。
音楽自体は再現されるものであるが、それによって齎される感情は再現されるのではなく、その瞬間瞬間に齎されるものだ。表現者が作曲するにあたって世界観を構築する時、一つ一つの器楽構成や音色が、彼の記憶の何処から呼び覚まされて、旋律や調性を形作るのか。紛れもなく、それは夢と共の領域にあるのである。
□ from my twitter log
□ 前奏曲とメイン・タイトル
カールベーム指揮のワーグナー前奏曲集は未だに私にとっての至宝の一つ。仰々しさだけではない、楽譜に対する誠実な姿勢と精緻な組み立てが魅力。ところでこのオーヴァーチュアという発想、近代の映画ではエンドタイトルに代わられることが多いが、サントラではメインタイトルとして再編曲されることも
今の映画音楽,所謂「スコア」が映像の要求に答える為のものであるのに対し、オペラにおいて前奏曲が果たしている役目は、最初に主題を提示しておくことで、観劇が進むにつれて大きく感情的な作用を及ぼすことにある。
もちろん今の映画の多くもメインタイトルをクレジットともに劇中序盤に据えているが、如何に音楽が映像を超える仕事をしても、一個の楽曲として完成した形を鑑賞時の感動と同期させるのは様々な制約から無理が多い。サントラ限定のメインタイトルは、生産的な意味合いよりも作曲者の妥協が垣間見える
身も蓋もない言い方をすると、映画音楽っていうものは、そういうものでいいと思う。(笑)敢えてアンバランスな物言いをしてみたり。無い物ねだりって大切。(^O^)/