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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

科学的“啓蒙”の罠

2009-05-08 06:50:04 | Science
「科学的手法」の本質とは、事象の「Why?」を問うことではなく、全て実証的あるいは言辞的に再帰性のある「How?」のPathwayを構築して行くことに他ならない。


当ブログでも過去に繰り返し扱って来たテーマですが、昨今の出版業界、科学ジャーナリズム、ポップ・サイエンスの分野においては、日常生活に適用される科学的関心をセンセーショナルに煽り「読者を釣る」ためのコピーが氾濫している。

その権威主義的なマスカルチュアライズによって一般の科学思考を焼き畑的に劣化・阻害しかねない言説が、当の科学者自身によって「商品化」されるケースも目立っており、その有害さは到底看過できるものではなくなって来ているように感じられます。



男女論を扱いながら脳医学や遺伝子学、疫学的見地からの中途半端な啓蒙を行う著書の数々は、その最たるものとしてあげられるでしょう。あれらは単なる科学「風」のゴシップ・エンターテイメントでしかない。増してやSFですらない。


彼らの最大の矛盾点は、記事の序文にあげた"Why?"と"How?"の論理区分が見苦しいほど交雑していることにあります。敢えて過去に挙げた引用を繰り返しますが、「なぜ男女が存在するのか?」という疑問にたいして、ある学者が「免疫を強化する側面もある」と解答をした場合、最初の質問の「なぜ?」は無効となって「男女が存在することによって」と前提が挿げ替えられて「免疫を強化する為に~」、つまり「How?」に対する解答となっているのです。

「なぜ男女は存在するのか?」の「Why?」は解消されたわけではなく、「なぜ免疫を強化する必要があるのか?」、究極的には「なぜ生存するのか?」と形を変えて保存されたままですが、この一連のやりとりは出題者に疫学的な知見を投げかけるという意味で、有益と評価できるものに違いありません。



問題は、クエスチョンそのものが解答者自身によって同時に提示されている場合に起こりがちです。「男性は女性の為に遺伝子を運ぶ存在として作られた。」これは、著書で20万部を売り上げた何処ぞの生物学者が実際に展開している自説ですが、この是非とは無関係に、これが「男性が女性に尽くす理由」と、日常的社会的な経験事象への説明としていられる時点で目を疑ってしまいます。

突っ込みを入れるのも情けないのですが、多くの動物がメスを基準にオスを形成するからといって、遺伝的に「雌が雄に先立つ」というわけではありません。寧ろメスとオスは系統発生的に等価な関係性にあり、そこには変異と分布の為の効率性が大きく絡んできます。仮にはじめからオスを作る必要が無ければ、メスである必要も無かった。と言えばわかるでしょうか。


「~する為に、○○した」という同様の論理階層の混同は、あらゆる学術分野で日常的に用いられる一種のレトリックではありますが、厳然たる科学的事実とは全く別種のものです。「A→Bという振る舞いを実現する為にプログラムした」事実について「A→Bという振る舞いを起こすプログラムがある」のは真であっても、「A(or B)のプログラムがA→Bを実現する」のではありません。


上の例では、「男性が女性に尽くす」と見なされる観測事象が、「女性の遺伝子を運ぶ」という目的に従属する様を、あたかも普遍的な機序として短絡することで、人類学、遺伝子学の双方の類比推理(アナロジー)から破綻しています。

「男性が女性に尽くす」を事実と仮定すると、それには社会的日常的な解答が無数に考慮され、同様に「女性の遺伝子を運ぶ効率性」には、遺伝子学上の相当の仕組みが考慮されなければならないのに、その別次元の2つを結びつけて"That's Why"とするのは余りに放言に過ぎるということです。




ゲーデルの不完全性定理が如く、
「人間を定義するものを人間の価値観で断じることは出来ない。」のは自明のこととは言え、近代において優生学が引き起こした過ちを例にとるまでもなく、中々そうはいかないのが、古い歴史から民族間人種間闘争における払いきれない火種の一つと言えるでしょう。



1)科学的に観察された日常の事実(経験)
2)直感的・思索的な日常の事実(経験)の観察
3)科学的事実(経験)に基づいた日常の観察


多くの人が日常を送る上で抱きうる科学的関心と思考法は、上に挙げた3要素を循環、フィードバックしていると仮定してみると、非論理的な科学ジャーナリズム(シャーマニズム)は、(2)から(3)に至るプロセスで大きくバランスを欠いて逆行しているように思えます。そして大衆の主観となる(1)に伝播し、無益なり有害なりな影響を及ぼす。


一般大衆の科学的興味を惹き付ける為に、無駄にセンセーショナルなコピーを打つこと自体を批判したいわけではないのですが、それが「論理的思考」の意義そのものに遡行しうるものであれば改めて然るべきです。無論、経験事象の科学的評価とは、それ自体完結しているものではありえません。

人の言辞とは総て、事実の記述的構築が帰趨するトートロジーの環に介入する手段でしかなく、その価値は人間にとっての実効性を以て天秤にかけるしかない。



そろそろ、「非科学的な」科学啓蒙書がベストセラーになる理由を、社会人類学的に検証した著書が現れても良い頃合いだと思うのですが。。