lens, align.

Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

St.Gallen ザンクトガレン修道院.

2006-08-17 23:59:00 | art music
St_gallen_gallus

□ St.Gallen Kathedrale/Stiftsbibliothek
  (ザンクトガレン大聖堂/付属図書館)

>> http://www.stibi.ch/



概要                                 .

東スイス地方、ボーデン湖近くに位置する歴史的な町、
ザンクトガレンに聳える中心的な建造物。
カロリング朝時代の面影を残すバロック様式の建築は、
実は10世紀近くに渡る破壊と再建の繰り返しを乗り越えてきたもの。
現在では修道院としては機能していなく、重要な学術研究、
観光や町民の憩いの場として、広く一般に公開されている。
また、隣接して修道院付属図書館が建造され、
18世紀に作られた大広間の装飾はロココ様式に基づいている。
1983年にユネスコ世界文化遺産に指定。



歴史                                 .                                      

西暦612年にアイルランド人修道僧ガルスによって開かれた小さな僧房と礼拝堂に端を発し、8世紀頃にベネディクト派院長の聖オトマー指導のもと、後の9-10世紀にかけてヨーロッパ中の学問の総本山として、史上最も重要な史料や学術書が集められ、ラテン語からドイツ語への翻訳が行われた。中には7世紀、グレゴリウス1世の呼びかけで編纂が始まり、その後フランク王国が主導した『グレゴリオ聖歌』の現存する最古の写本や、世界最古のものとされる建築設計図などが現在に至るまで貯蔵されている。

Sankt
(大聖堂内部)

Biblio
(図書館内部)



特徴                                 .

ザンクトガレン修道院の歴史上際立った隆盛の陰には、写本製作における類稀な装飾技術が支えたところが大きく、よってより広い範囲に蔵書を求めることができたと思われ、(製本過程においては羊皮紙の金箔押しや宝石までが埋め込まれる。)フランク王国の公式書体、ミナス・キュールで書かれた『ヴォルコフツ詩篇』や、『エヴァンゲリウム・ロングム』の「L」文字は、装飾文字の達した頂点とさえ評される。特記事項としては他に、グーテンベルク朝の遺した印刷本の最初期の形である『インキュナブラ』を1600冊超所蔵する。

<参考>
http://www.shajisitu.or.tv/c6.htm

あるいはその起源から、9世紀半ばまでは貴重なケルト写本が多く存在していたとされ、ガリア・ゲルマン以北の、よりルーツの古い文献に特化した収集力を持つ。またザンクトガレンが所蔵する多くの写本"Codex Sangallensis"には、それぞれ最古の音楽的記譜法が見られ、今尚研究と解読の対象とされている。

Codex_sangallensis
(オッフェルトリウム:文字上部にネウマ譜の基となる音節記号が見られる)

図書館内部も同様に、床や聖堂に至るまで膨大な装飾に溢れており、ニケーア公会議、コンスタンチノープル公会議、エフェソス(エペソ)公会議、カルケドン公会議という、キリスト教史上重大な会議となったフレスコ画が描かれている。そして何故か、19世紀に寄贈された紀元前700年前のエジプト人女性のミイラまでがあるという。



アクセス・観光                            .

チューリッヒから東へ約一時間。小道に沿って綺麗な飾り出窓とドイツ風の彩色が目立つ家が立ち並ぶザンクトガレン旧市街地は、繊維・織物産業でも栄え、ソーセージが美味しいそう。こうした名物も全て、修道院の産物。ザンクトガレンの街は昔も今も、歴史の叡智の後光を受けて、凛とした佇まいを誇っている。


そんなわけで、
私が昔から憧れ続けているスイスの最重要文化遺産、
ザンクトガレン修道院について扱ってみました。
次回はコルビジェの建設したロンシャン教会について
(できればいいなー。。)



□ Tunes of the Day

□ Chanticleer / "Mysteria Gregorian Chants"

Antiphona: Hosanna,Psalm 23
Improperia: Popule Meus

第2バチカン公会議によって、各国語の典礼歌が認められるようになったのに対し、近年ではその歴史上最古のものとされる音楽的重要性と価値が脚光を浴びてきたグレゴリオ聖歌。単旋律、無伴奏という最も素朴で純粋な形を持ちながら、その本質は、アルプス以北の伝統音楽やユダヤ教聖歌、アンブロジウス聖歌、東方教会聖歌、古代ギリシャ、ヘレニズム音楽の集成とも言うべき、汎ヨーロッパ的なものであった。旋律は8種の教会旋法に大きく分類され、主音(終止音)と属音(支配音)で構成されるあらゆるヨーロッパ音楽の定量的記述において礎を築いた。

ここに紹介する"Antiphona(ダヴィデの子にホザンナ)"は、以前ここでも紹介した紀元前2-1世紀に書かれた古代ギリシャの『セイキロスの墓碑銘』と酷似しているとされているもの。Enigmaファンにとっては、"Sadeness(Principles of Lust)"でサンプリングされているとして最も有名なものだろう。"Improperia"には、ギリシャ語部分がビザンチン聖歌の特徴に極めて一致するものがあるとのこと。



□ The Theodore Vassilikos Ensemble / "Musique Sacree Byzantine"

Marie, Le Seigneur est Ave Toi

ギリシャ正教のビザンチン聖歌は、17世紀以降、多くの作曲家がアレンジを試みた。中でも最も偉大とされるペトロス・ベレケティスによる『オクトエーコスによる生神女マリア大讃歌』。オクトエーコスとはビザンツ聖歌の「八つの調」であり、各曲はリズムやメロディの異なった第1-4正格エーコス、第1-4変格エーコスで唄われる。ペトロス・ベレケティスの作品は、過去数世紀のギリシャ正教会聖歌をそのままの形で残し集約していることでも価値がある。テオドロ・バシリコス・アンサンブルによる演奏。



□ Haissmavourk Choir / "The Music of Armenia (Vol1.Sacred Choral Music)"

Sirt im Sasani
Khachi ko Kristos

恐らく私が知る限り最も美しいアルメニアの合唱曲。4世紀、アルメニアは世界で最初にキリスト教を受容した民族であり、その伝統音楽はグレゴリオ聖歌に多分の要素を遺しています。ここで挙げるのは現代作曲家Komitasによってアレンジされたもの。7世紀に起源を持つ"Khachi ko Kristos"がここで聴ける1番グレゴリオ聖歌に近い。Sahak Dzoraporetsiによる解釈。



□ Pomerium / "Musical Book of Hours"

Josquin Des Prez / "In Principio erat Verbum"

最後に、教会音楽の大成に関わった巨匠ジョスカン・デュ・プレの作品。ヴァチカン図書館に所蔵されているスクリプトから。

_*

現在、もう一つブログを準備中です。
おおよそ構想は纏まっているのですが、
あえて公開することのないパーソナルなものになりそうです。


"Push the Limits"解題

2006-08-17 23:53:00 | Enigma

(以下の文章は、私が過去にEnigma会議室に寄稿した、Enigma / "Push the Limits"のVideo Clipに関する独り善がりな考察です。ある意味この"lens,align."で扱うテーマの着想となり、核心となるものが散りばめられているので、色々と拙い点、至らぬ点がございますが、ここにWeblogとして遺しておきたく、転載致します。)


■- 搾取と交換のルール - "Push The Limits解題"

擦り切れたフィルムのカウントダウン、レイヤーの向こうに映し出されるのは、ゲームの筐体に向う一対の男女。女は徐にコインを取りだし、それを対価として余興を開始する。相対する剣士。仮面を被り行為に及ぶ二人、カウントダウンは続く。複数の次元に跨る共変位を描くこの作品において、鑑賞者に最大のストレスを及ぼすのはやはり最終場面、勝敗の決した男女が入れ替わる部分である。面を脱ぎ取った男性の戸惑いの表情は、そのまま我々の戸惑う心理の鏡として、スクリーンに映し出される。

そもそも剣道着の中身を推測させる為の映像の併置にこそ関連性がなかったのかもしれない。主観者は提示された符合を組みたてるロジックを持っているが、それが真理とは別のところにある時に度々欺かれる。

真理とは何か。遍在するパースペクティブ、あらゆる観察者に各々の変化を及ぼした事象の内部構造であり、常に彼らを通して写される背理に晒されている。クレマン・ロセは『存在の逆は無ではなく、写しである』とし、あらゆる個人の世界観に忍びより蝕む不確実さ、人間存在そのものへの気味の悪さに関心を向けているが、正に我々が「知らない」のは「知っている」が故なのだ。真理は常に闘争と獲得、議論のうちに探られるが、相手が自分であれ、他者であれ、「自己超克」のプロセスが主観者の動機と存在理由を規定している。

さて、この男女である。私も嗜んでいたが、剣道の精神には、闘争そのものを儀礼的な行為に見たてる要素が色濃い。相手の呼吸の間を読んで駆け引きを行い、間合いに飛びこみ竹刀を打ち合う。ビートとは二つ以上の対象が衝突して生まれるものだと思い起こさせる。お互いの論理の表層に空く間隙を探り合い、痛烈な一撃を見舞う。勝敗の由来は論理的な帰結ではなく、行為者による全体性への干渉と恣意の挿入だ。結果として両者は、そこに至るまでに食らった相手の分身(=写し)を身篭ることになり、戦う以前にあった自分自身の殻を内側から食い破られる。彼は彼女を手に入れ、彼女は彼を手に入れた。現在(いま)の表出、自己超克である。

視点をベッドの二人へと移そう。ここで愛のなんたるかについて語るつもりはないが、この二人はお互いの表情を仮面で覆い尽くしており、肉体的な交歓以外の部分では拒絶しあってるようにさえ写る。(そういう趣向が愛によってなされている可能性も考えられるが。)剣道の仕合う準備で自ら武装を施す男女の関係もこれだろうか。しかし入れ替わったのはその核となる彼自身、彼女自身だけだ。一方で両者は、ゲームの介在でお互いの実体とは隔絶し、しかし反応を盗み見ながら勤しんでいる、同じ男女の映像にリンクする。

優利に立たされたものは甘美な優越感に浸り、不利なものは不快感を波立たせる。ゲームはさながら感情の天秤の役割を果たす。どちらの場合も、お互いに視線の齎す干渉を放棄しているに等しい。相対する観測者としての立場を覆い隠しながら、あたかも機械のごとく相手から快楽を貪り続ける。この表現、または映像の描写の仕方に落とし穴があった。最終的に女性の行為によって追い詰められ、果てた感のあるベッドの男性だが、ここで実にいかがわしい疑念が頭を過る。『搾取されたのはどちらだろうか』それは男性の望んだことなのかもしれない。

この疑問は、最後に何食わぬ顔でゲームを後にする男女の映像によってすぐに解かれるわけではなかった。一切は始めから両者が儲けた自我の境界、特殊な制限と規定の中で築かれた、明快で予定調和的な関係であるにも関わらず、鑑賞者は腑に落ちない感情を引き摺り続けることになる。いわば、一連の映像表現の手順に施された、認識を煙に巻くような意匠に注がれた恣意的な力が、既に鑑賞者と被観察物との対称性を破っているのだ。

"Push The Limits" … 「限界を超えよ」とは、未来に向って様々な方向に分岐しつつある表現手段を発信、受容するにあたって、その無限の可能性と認識の様々な様態を、どのように生成、獲得しなければならないのかを示唆するメッセージにも聞こえるが、その答え自体は投影されていないように思える。それは"Gravity of Love"、"Silence Must Be Heard"でデカダンな香りとともに歌われている刺々しい痛みの果てにあるものか、あるいは"Incognito"にあるような、闇のリソースを食らう牧歌的なお忍びの旅の果てに見出せるものなのか、とにかくこのパズルのような宇宙において無数の認識を組み替え手探りで生きる"意識する者"が夢見る『永遠の謎』、その実像、あるいは虚像(=どちらも真理の投影である)の片鱗を垣間見ることの出来る鏡が、私にとってのエニグマである。

・・・勢い余って冗長になってしまいました。。
複雑な事柄を説明するには単純な言葉、単純な言葉を説明するには複雑な表現を要するジレンマ。。ウーン。。。最後に、Remember The Futureのブックレットで、"Push The Limits"に寄せられている詞の一節を引用します。


"信用させるような話ぶりは醜い   "To speak believabley is unsightly

美しい話しぶりは信用できない   To speak beautifully is unbelievable

知っているものは何も学んでいない He who knows,has no learning

学んだものは何も知らない     He who has learned,knows nothing

相応しいものは価値がない     What is suitable,is worth little

豊かなものは相応しくない"     Whatis much,is unsuitable"



□ Push The Limits 解題 >> "反"解題

前回の投稿の内容ですが、少し意図したものの、思ったより構造がいびつになってしまったので、ここで補足的なものを。。

>>面を脱ぎ取った男性の戸惑いの表情は~

"Push The Limits"の最後の場面では、男の怪訝な表情とピチカートの疑問符のような上昇音がシンクロしていてあたかも一つの連関を成しているように見えます。

>>相対する観測者としての立場を覆い隠しながら~

ここらへんで論考が不連続になってしまいました。ここで言いたいのは、行為者が干渉主でありながら観察者であること、つまり自らが描く現実から自身の投影を放棄することが、仮想的な傍観の中で自己を防衛するということで、主体と離れたあらゆる投影が虚実であるということにつながります。言葉にしたもの、映像にしたもの、音楽、虚実が現実を食らい入れ替わるのは、そういった瞬間です。また、それらの表象媒体そのものが眼を持ち、鑑賞者を見返し、内側にその写しを取りこんでいるとも表現できるでしょう。同じものは二度と表象されず、その過去を織りこんだ姿となって、鑑賞者の眼前に現れます。これらが紛れも無い現実として受容できる物理的な信号(例えば星の光)と区別されるのは、人間の認識そのものの組み立て方に由来します。

この作品の楔ともいうべきMcmxc a.D.に擬えると、「背徳の官能」の要因として考えられる様々な要素。生理的にはリスクを警戒するスリルによる心拍の高揚による興奮、心理的には、自己の背信行為を客観に挿入した、リスク回避の身体的反応の増幅と制御が考えられますが、そういった手順で得られた快楽は、のっぺりとした一枚絵の現実として、記憶に作用することになります。本来ならば関連のないもの同士、たとえば教会での行為ならば、その強烈な記憶にある周囲の世界が、彼(彼女)を取り巻いていたものを連体の条件要素として記銘してしまうのです。

これは"I Love You...I'll Kill You"で歌われている愛憎並存(アンビバレンス)にも通じます。身体的な反応が心理を欺き、虚実を現実としてしまう過程。またそれは、人間存在の哀しい現実に他なりません。もっと一般的には、人間から人間への意志の伝達に際して、その伝達内容の(あるいは情報共同体におけるミーム)根源たる要素は、その時間軸を逆に遡ることで触れられることのできる、いわば鏡の反射の出発点にあるのかもしれません。"鏡の向こうのスクリーン"…スクリーンとは人間関係に介在する現実、鏡は太古の昔から認識を写しあってきた人間達そのものです。

>>特殊な制限と規定の中で築かれた、明快で予定調和的な関係~

以上のことから、単一の現実を様々な要素に還元して写しだし、認識する人間は、まさにプリズムのような存在であること表現できるかもしれません。現代の偉大な数学者ステファン・ウルフラムは近年『計算等価性原理』を唱えて、この宇宙が単一のプログラムとして記述できることを主張していますが、(オウテカの"Confield"は彼のソフトウェアに基づいたもの)問題はそれの描く現実がわたしたちの認識や準位系とは全く別のところにあることです。しかし物理定数についても意味論的な議論がなされることがあって、主観者の帰属する次元が違っても数値間の関係性は保たれるとのこと。

ここでライプニッツのモナドよろしく、私達の意識は孤立したものだということを思い出さなければなりません。共有できる概念のアーカイヴはあっても、他者の意識とは共時性を持ちこそすれ、他者の表層に覆われて見えず、あくまで"誰かの知る形では"存在しないものです。認識が結びつくプロセスは、定量的差異を持つ信号の交換による、発信者同士の共変位という振舞いにあります。意志は論理に対してメタ構造を持ちますが、同時に私達自身である宇宙の写しに囚われ、その支配する法則に縛られています。

クレトゥは「ファンタジーこそが生の源泉」であると言いきっています。現実を写す私達はまた、現実に対して自己の宇宙を投影することができるのでしょう。心理的、身体的な限界、様々な縛りは己の内にあるもの、常に自らの理想を現実に写す行為者であれ、という力強いメッセージが込められているように思えたのでした。まる。

…人間何かについて考えてるときは、何かに対して盲目なのですね。。。長々と乱文、お目汚し、失礼致しました。


Richard Devine / "Asect Dsect"

2006-08-17 23:47:00 | music3

(以下の文章は、私が過去にEnigma会議室に寄稿した、Richard Devine / "Asect Dsect"に関する独り善がりなレビューです。ある意味この"lens,align."で扱うテーマの着想となり、核心となるものが散りばめられているので、色々と至らぬ点がございますが、ここにWeblogとして遺しておきたく、転載致します。)


:: Richard Devine / "asect:dsect" 2003 ★★★★★

ちょっと前にも紹介しましたが、私の中でクレトゥ並に株が上がってきています。自らがシンセ音源を製作提供したり、クセナキスのRemixを手掛けていることからわかるように、ソフトウェアとしての音楽と、音楽のソフトウェアにおける先端のアップデートに深く関わり、この先も顧みられるであろう重要なアーティスト。

この作品では若干ヒップホップ的な規則性のあるビートの作用を重視していますが、無限のレンジからランダムに音色を拾い上げ、離在する符合を任意のパースペクティブで反復記銘し、自身のコピーを紡いで時間を生成するといったようなものでしょうか。歴史をかけて形を成してきたものが、蓄積されたシステムの中では、その瞬間瞬間に自己生成され、逸脱される感覚。連関では隙の無い決定論的にふるまいながら、その多義性によってあらゆる可能性と接合できてしまう様は、ラプラスの魔のような抗えない力を謳ったEnigmaとは180度違うものですが、どこか聖歌を聴くような厳かな気持ちを喚起させる不思議さがあります。

"Let Mendax"は、カオティックなダイナミクスに支配された、高速で定位を移動させる音の群像にフォーカス。中盤では、明滅する種々の響きが漆黒に広がる虚空の顎に引きずり込まれる瞬間があり、なんともいえない浮遊感を味合わせてくれます。 "Rusx Fee"に見られる狂暴な重低音と空隙を弾くノイズは、太古からの情動の息づいたマシーンリズムの見る夢を、強烈な確率共鳴とともに聴覚に刻み付けます。
この作品に関しては、そのアーキテクチャが、音楽として批判されるべきゲシュタルト崩壊を巧く構造美のリミットサイクルに織り込んでおり、この手の批評として馴染みやすい非音楽性への言及は、それ自身にとっての否定を孕んだものになるでしょう。そも「音楽」が、その場で演奏されるという現実と切り離されて概念的な亡霊となりながらも尚、テクノロジーの歯車にその呪いを噛みつつ軋んでいる危うさ。 OVALがメディアに人為的な負荷をかけて生み出した『テクノロジーの悲鳴』といった類とはまた違う、音楽自身による痛烈な自己言及と新たなリテラシーがここに呈示されています。


(Review) Leigh Nash / "Blue on Blue"

2006-08-17 23:32:30 | music3
Leigh

□ Leigh Nash / "Blue on Blue"

Blue
Cloud Nine
Just A Little
Never Finish (Live Version)

Release Date; 15/08/2006
Label; Nettwerk
Cat.No.;
Format; 1xCD

>> http://www.leighnashmusic.com/

>> tracklisting.

1. Along the Wall
2. Nervous in the Light of Dawn
3. My Idea of Heaven
4. Ocean Size Love
5. Never Finish
6. Between the Lines
7. More of It
8. Angel Tonight
9. Blue
10. Cloud Nine
11. Just a Little


Live CD

1.Never Finish
2.My Idea of Heaven
3.Nervous in the Light Dawn
4.Just a Little
5.Blue

Sixpence Non The Richerのメインヴォーカルを務め、
Deleriumでもフィーチャーされるフィメールシンガー、
Leigh Nashのソロデビューアルバム。
予約限定盤、直筆オートグラフ、ライブCD付き。
うーん、普通のカントリーポップ然としてて、
これといって挙げたいポイントはありませんね。
メロディやサウンドも聴き易く、万人受けしそう。

メイン・プロデューサーにPierre Marchand、
他に有名な所ではRick NowelsとBilly Steinbergの
二人が"Nervous in the Light Dawn"と
"My Idea of Heaven"の2曲に参加。

既報の通り、DeleriumのBill LeebとRhys Fulberが
Leigh Nashをフィーチャーした"Fauxliage"も
リリースを控えています。

□ Sleepthief 2nd Single / "Metro"

Sleepthief / "The Dawnseeker"からの
シングルカット第2弾は、Jerri Eckkertを
フィーチャーしたBerlinのカヴァー曲
"The Metro"になるそうです。