Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

文学としてのジャーナリズム

2012-01-04 | マスメディア批評
昨年亡くなった元チェコ大統領ハーヴェル氏の記事を読んだ。文学者とかその手の文化人については、その発言力や影響ゆえに、その発言内容の理解し難さなど個人的には苦手な人種である。

しかし、最近は読解力や洞察力がこの歳になって漸く向上したのか、こうした文学者の創作の意味が初めて理解できるようになってきている。如何に人々への心の深くへと言葉が届くか、啓発できるかということで、やはりその言語に纏わる固有文化の中心にあるものだと初めて理解するようになってきたのである。これを以って初めて文化を語れる資格を習得しただろうか?

特に旧共産圏下でのこうした文化的な影響力を鑑みて、未だに開化されていないどころか昨年の福島以降に文化人以外も初めて気がつくようになってきた環境をどのように啓発していくことが出来るのか。日本の文学者の責務である。

大江健三郎は、反原発運動でものを語っていたが、自らの責任については明白にしていたとは思われない。

ルフトハンザが、アメリカの会社と協力して、滑走路での「タクシー走行」の電気化を実験研究している。空港が大型化するにしたがって、待機場から発着レーンまでの距離が伸びているので、短距離の国内飛行ではその間のケロチンの消費は全体の三パーセントにもあたるというのである。更にタービンエンジンを動かさなかったり、早めに止めることで、騒音を抑えることが出来る。

こうした行いは、経済的に大きな効果が目されているのだが、同じ現象でもその捉え方伝え方によってそこから広がる景色が変わるのである。ジャーナリズムとは文学であるのだ。

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