Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

希望という自己選択の自由

2009-06-19 | 文化一般
日曜日に、車中のラジオで聴いた内容である。新旧の恐らく旧教であったと思うが聖職者が語っていたのは富みについてであった。米国では僅かばかりの持つ者が合衆国の半分の個人資産を所有しているというが、ドイツ連邦共和国においては一割の富裕層が三分の二の個人資産を独占しているらしい。

物欲や金銭欲が決して満たされないのは繰り返すまでもないことである。しかし、持つ者と持たない者の差は、その自由になる時間が異なるというのは尤もである。

持たない者は生活のために余分な時間が与えられなくて、時間を自由に使うことが許されない。事実はこれに尽きるだろう。聖職者が語るように、もしかすると不老長寿も金で買えるかもしれないというのは何とも言えないが。

自由な時間は、自らの教育などのために使えると言うのである。些か啓蒙思想的にも聞こえるが、労働運動が持たない者達のためにヴァカンスという時間を与えたのだが、一体そうしたエンターテイメントなどに費やされるそれは本当に自由な時間であったのかどうかは議論の別れるところであろう。

エンターティメントやレジャーと呼ばれる、余暇による労働効率や経済効果を当てにした時間を過ごすか、はたまた高尚な時間を過ごせるかの選択がある事はやはり究極の自由に他ならない。選択の余地があるのとないのとでは大きな違いである。

先日から少しづつ触れている癌闘病記においても、不治の病に侵されて残り時間が少なくなり、尚且つ選択肢は限られているのだ。それでもクリストフ・シュリンゲンジーフは、自己選択の自由を主張したかったのである。

それでも皮相的に批判させて貰えば、その神の概念は一神教的なものに根ざされており仏教やその他の多神教の世界を十分にものにしている様子がない。そうなるとバイロイトのパルシファル演出での世界宗教行進の場の「おかしさ」が解明されるだろう。

しかし、残された時間の限られた者はアフリカで活動しようが何をしようが新しいものを得る事はなく、滑落する登山者の如く短い時間にタイムスリップしたような走馬灯を観るだけの事なのであろう。

本日車中のラジオで非知識人の知識人批判が知識人によってハーバーマスを例に挙げて議論されていた。なんらかの外界からの情報の蓄積のなかで新たな情報が関知され考えたり感じたりするのみで、思考とはそれ以上のものでも以下でもない。

その後のニュースで、PISAの成績は意外にも家庭の社会層に依存せずに文化的背景に依存するという結果が発表されたらしい。死の床のホスピスとかいう以上の文化を芸術をそこに求めるという主張がなんとなく理解が出来そうである。

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