Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

意志に支配される形態

2006-01-05 | 
オペラ「ヴォツェック」に目を向ける前に、もう一度断章として残された戯曲「ヴォイツェック」の創作背景から真の創作動機を推測してみる。しかし多くの専門的研究がある事でもあり、作者が幼年期を過ごしたダルムシュタットを想像しながらいま少し考えてみたい。

今回の文化記事にあった様に、全ての地理的な対象は実在するようで、それは現在のその周辺を知るものからも当時の生活が浮き上がるようである。つまり、ビュヒナーが描いた世界は、かなり現実的な風景であって、疾風怒涛時代の開かれた作品としても認識されると言う事である。その開かれた形式は、不幸にも未完成の断章に終わった事でもあると同時に、主人公が沼の底に消え、主人公の子供が遊びながら母の死を告げられる幕切れによっても導かれる。しかし、このような筋運びは決定的なものではなくて、例えばクラウス・キンスキー主演の映画では、前者の入水の景で終わっているようだ。

前述したように、法廷闘争がこの後に展開したとすれば大きく変わって来たのであろうが、重要なのは主人公のキャラクター付けとその主観から我々の客観への橋渡しにまた反対方向への橋渡しであろう。これは、改悪とされているフランツォーズのセンチメンタリズムを交えた自然主義的な校訂を通しても失われていない。

更に、今回の記事に纏められたような実際のモデルの実話の創作過程での変容は、著しく興味深い。例えば、ダルムシュタットの事件の被害者がユダヤ人であって、その当時の反ユダヤ主義的な裁判官は、被害者が暴利を貪っていたとして、シュナイダーは軍法裁判で絞首刑を逃れ情状酌量で銃殺刑とされた。これは、勿論戯曲には登場しないが、凶器を売る商人として、また街の女の妻マリアへの揶揄の言葉に、また酒場の歌に登場する。1814年にヴァルトブルクで書籍の焼却があったことからすると当時の雰囲気を良く伝えている。

ヴォイツェックは、浮気の妻を殺害して、その足で店へ行き、そこで踊り、血糊が見付かる。急遽死体の許へと戻り、凶器を隠匿する為にナイフを持って沼へと向う。ナイフを投げ捨ててから、沈んだナイフを確かめる為に探しながら入水して、体に付いた血糊を気にして溺れて行く。その景の後、父親が親子関係を築け無かったヴォイツェックの11歳になる子供の終景となる。

沼には灰色の霧が立ち込め、空には燃える鉄のような赤い月が輝く中で沼に沈んで行くヴォツェックは、表現主義の芸術として変容されたオペラ版「ヴォツェック」である。フランツォーズが手書きの原稿を読み違えたので、作曲家アルバン・ベルクも間違ったままのタイトル「ヴォツェック」を使用している。当時、ビュヒナー研究が既に進んでいた事から、作曲家も様々な情報を考慮しているようだ。しかし、ヴィーンでの戯曲の初演の臨席から自作のオペラの完成後まで、作曲家はこの戯曲の断章そのものにカオスを見ていたらしい。

ヴォツェックが医者に診察を受ける一幕4景に措いて、作曲家は自分の軍隊経験を踏まえて、ヴォツェックがそこかしこで「立小水をする」を「咳きする」に変えている。当然の事ながら後者の方が音楽的だとしても、その他の言葉は据え置かれている。自然の生理現象は、意志に支配される膀胱として定義されている。ここでの狂人と自然科学者のモノローグの対決が見物であるが、こうした改作で意味不明な遣り取りとなってしまっている。ここでは、パッサカリアの12音による主題によって、哲学的な患者の固定観念が、終に医師の固定観念へと変容されて頂点を迎える。主客逆転する大変重要な場面である。これは、アドルノに言わせると、ヘーゲル風の自由への自己の浄化作用となるのだろう。因みに1997年のペーター・シュタインによるザルツブルクでの演出は、作曲家の意思を無視してテクストを再び「小水する」に戻している。

実は、この医師が登場する他の場面が割愛されている。生徒達を集めて万有引力の実験に屋根の上から猫を投げつける情景である。勿論、ヘンツェによるオペラ「午後の曳航」ではないので美学的に相容れなかった情景である事は理解出来るが、これが所謂「ヴィーンの連中」の美学かもしれない。

何れにせよ初演当初からその音楽的素材とその形態について、本人自身の1929年の解説だけでなく、音楽解析的説明には事欠かない。更に現在に至るまでの上演回数も20世紀に作られたオペラとしてトップクラスの興行成績を残しており、初演当時の舞台写真などを見ると、その表現主義的で近代的な様相に感心させられる。それでも、その作品が従来のオペラを含む音楽劇場の為に書かれたとして、同時代のそれらの作品群と比較して充分な劇場効果を持っているかと言う疑問は残るのである。そしてこれらは、表現主義と言うレッテルを貼られて、寧ろ現在に措いて陳腐で月並みな意匠でしかなくなっている傾向がある。その理由は、既に上述したように主観客観の変移が難しく、劇場的配慮は別としても、額の中の絵の様に効果が限定される傾向ある故である。

アドルノが語るような作曲の効率化と、ベートーヴェンの交響曲のような全体と部分が密に関係することで形態となったベルクの音楽の孤独な自己完結性は、たとえ故意にヴォツェックの終景で終結が開かれているにせよ、たとえその音楽的な充実振りに感嘆するとしても、如何にその声楽的処理が自然で秀逸していても、音楽劇としてオリジナルの戯曲が持っている劇場を抜け出すような影響力は無いのではなかろうか。オリジナルのモデルの話を知って、尚更そのように考えた。(ある靴職人の殺人事件 [ 文学・思想 ] / 2006-01-04 より続く)



参照:
印象の批判と表現の欠如 [ 文学・思想 ] / 2006-03-11
考えろ、それから書け [ 音 ] / 2005-12-19
ヴァイマールからの伝言 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-03
オペラの小恥ずかしさ [ 音 ] / 2005-12-09
非日常の実用音楽 [ 音 ] / 2005-12-10
海の潮は藍より青し [ 文学・思想 ] / 2005-08-28

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