Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

カイザー音響への道程

2024-07-19 | 文化一般
承前)モーツァルトフェストの演奏会、カイザーザールではサイドの一列目も空いていた。しかし舞台を高く組んでいるのは知っていたので、後ろの席にした。サイドであるから安い。三ランク目の席であったが、音響を知るためには十分だと考えていた。

当夜演奏された曲は、ヴェーバーの交響曲二番ハ長調から始まるプログラムで、冒頭からバロック楽団の面目躍如であった。ベートーヴェンの交響曲四番と同時代の交響曲とはされながらその曲はモーツァルトの協奏交響曲以上にバロック的な楽器の受け渡しなどがある。この曲を生で聴くのは初めてだったろう。

二楽章の緩徐楽章に数年後の「魔弾の射手」の萌芽があるとされているが、そのメヌエットや終楽章のユーモア感覚がハイドンだとされるように、その響きが浪漫的だとされたのはあまり正確ではない。

そのように断定可能なのは、昨今では決定的な名演とされているバーゼルの室内合奏団をエンゲルが指揮しての上演ではバロック楽器と奏法で激しく荒れ気味に演奏された。つまり、そこでのドイツ浪漫派の萌芽とするその意味合いの認識を新たに得た。

つまりここでもその楽器間の絡み合いはよりバロックのコンツェルタントであって、その妙こそが核心にある。実はその方向でこそシューマンの作品などが評価されるのは、20世紀に実は創作としても試みられて再認識されていた。

当夜の演奏会ではフィンランドのあまり知られていないバロック管弦楽団が演奏して、ヤンネ・ニソーネン指揮でディナー付きのゆえか休憩なしで集中して三曲のみが演奏された。しかしその楽団の名前を何処かで見た覚えがあった。なんと今年のハイデルベルクの音楽祭に出ていたのだ。

ヴェーバー演奏でもとても積極的なプレーが見られて、音楽的なダイナミックスやパウゼの息など思う通りに決まっていた。この曲における協奏的なプレーの面白さとテュッティの受け応えなど、正しく聴きどころはそこにしかない。二曲目のホルンなど必ずしも超一流の演奏が披露される訳ではない。しかし音楽的な演奏における感興とかその歴史的な位置づけとかが示される演奏で、決して大きな管弦楽団を指揮者が指導するような演奏実践ではこういう曲の本質は示されない。

この指揮者とここで弾いている音楽家たちがどうもタピオラシムフォニエッタで仕事をしているようで、共同体のような関係なのかもしれない。それほどアーティキュレ―ションなども共有されているので、実演での指揮の意思がとても演奏に活きていた。

一曲目で若干雑な印象得たのも仕方がないのかもしれない。それはプログラムが進むにつれて、そのアンサムブルのあり方などを観察するとより感じられた事であり、この演奏団体のものになってきていることがよく知れたのだ。(続く
Tapiola Sinfonietta: Beethoven Symphony No. 4 | Musicus Fest 2016 Finale Concert

Ludwig van Beethoven: Coriolan Overture - Shaw: Watermark




参照:
すっきり爽やかな泡もの 2024-07-16 | ワイン
週末の小片付けもの 2024-07-15 | 音
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