日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

年の瀬に聴く モントウル2001のキース・ジャレット・トリオ

2011-12-25 15:08:03 | 日々・音楽・BOOK

クリスマスソングに溢れる年の瀬になった。コーヒーを入れ、ライナーノートをめくりながら、繰り返し2枚組みのCDを聴いている。
「然るべきときが現れるまでと、手元に離さずに置いていたコンサートの録音だ」と書き起こしたのはキース・ジャレットである。
2001年のモントウル・ジャズ・フェスティバルのライブで、トリオ結成の25周年記念の作品でもある。キースは時折アルバムに、解説者のライナーノートと共にメッセージを書き残すが、このCDの一文はとりわけ興味深い。
「皆(ゲーリーもジャックもそして己も)、若くはないかもしれないが、皆人生で大きな物理的な躓きを経験した。その結果、`若さ`とは何かわかるのだ」。

まず僕は、此処に収録された3曲のスタンダードナンバーをラグタイムバージョンでおこなった演奏に意表を衝かれた。これがキースかと一瞬思った。キースはラグタイムを演奏するのは始めてだと書く。そして、これは25年間演奏してきた全幅を内に含むコンサートだったからこそで、今こそ聴くべきときと記す。自身のJAZZと、ラグタイムが源流にあるモダンJAZZを総括したのだ。
会場に詰め掛けた聴衆は、この3曲の演奏から一気に乗る。CDとして発表・発売されたのが6年を経た2007年、つまりこのモントウルでの演奏は、25年演奏してきた集大成であって、キースが其の成果を確認するのに6年かかったということになる。

2007年という年。なんと僕が東京文化会館で、キース・ジャレット・トリオのライブを聴いた年(2007年の5月8日、この日のライブについてのブログでの記述は、2007年9月17日付)である。
このときの演奏を思い起こすと、キースの唸りと叩き込むようなピアノのタッチは随所に感じ取れたものの、総じて品よく整った組み立て方で終始し、なんとなく物足りない思いを書き連ねたりしている。無論ラグタイムバージョンによる演奏はない。

彼はこう書く。
ジャック(ディジョネット:ドラムス)もゲーリー(ピーコック:ベース)も僕も「今はマスターたちの面影に近づいている」。キースは1945年生まれ、この一言が62歳のときのメッセ―ジだと考えると、人の成すものは何だろうと考え込まざるを得ない。
続けてこう記述する。
「この、まやかしと無心と模倣と自信のなさと無感動と無自覚と怠惰うわべの技と無知と自己欺瞞の世界で(なんと、凄い記述だ!)、この芸術生存の戦いに与してくれるゲイリーとジャックに感謝したい。僕はピーコック君とディジョネット君と音楽的個人的にやりとりする中で、陽はいまも知性で輝いているのだと知らされる。理解したいと、己の再生に与りたい、今尚、欲しているのは知性だ」。

キースの「知性」という、このメッセージの最後の一言に底知れない魅力を憶える。
「今尚、欲しているのは知性」。
若き日のインプロビゼーションによる「ケルン」のソロ、ジム・ホールとのデュオ`インターモデュレーション`を聴くと、彼が目指してきたものが解るような気がし、オボロゲナガラ再生という一言が意味を持ってくるのである。

ライブはコンサートホールではなく、例えばN.Yビレッジ・バンガードのような、或いは京都の寺に隠棲していたゲーリー・ピーコックを見つけ出してライブをおこなった、嘗て銀座に在ったジャンクのようなライブハウスがいい。息遣いが聞こえ、取り交わす眼の光が見える真剣勝負の場であり、真剣勝負の場であった!