日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

林昌二さんを偲んで

2011-12-04 11:24:00 | 素描 建築の人

11月30日、林昌二さんが亡くなられた。一報をもらいあわててJIAの事務局に電話した。第三代の会長をなさったのだ。(1990~1991)
この2月、DOCOMOMO Japan150選展の実行委員になっていただくお願いとご相談に静養先をお訪ねしたときのあの笑顔が蘇ってきて言葉が出ない。心よりご冥福をお祈りします。

林さんを慕う大勢の人の想いが寄せられていると思う。
歴史に残る数多くの建築作品もさることながら、多彩な建築活動をリードするとともに、陰でさまざまな方々をサポートされて来たお人柄があるからだ。JIAでもDOCOMOMOでも、あるいは神奈川県立近代美術館100年の会(近美100年の会)でも、僕の関わる数多くの活動をさりげなく支えてくださったのが林さんだった。

DOCOMOMO Japanは、2000年の春、鎌倉の近代美術館での20選展でスタートした。大手五社と準大手に声をかけて協賛のお願いをしてくださって事務局長の僕を支援してくださったのが林さんだった。

近美の会にもよくお出かけくださった。林さんがいるのといないのでは格式が違ってくる。
近美100年の会の会合を、見学会も兼ねてご自宅で開催させていただいたこともある。20人にもなってしまってご心配をおかけしたが,亡くなられた雅子夫人のお写真に一人一人がお花をささげることができた。夫人が亡くなった後自宅に招いたのは、あなたたちが初めてだったのだけどと、とても喜んでくださった。
僕たちは会合が終わってから、持参したお菓子や果物、飲み物を片付けて大掃除をし、ごみを全て袋に入れて持ち帰ったりした。若い参加者は、林さんの案内でご自宅を拝見できたことに大喜びだった。

あるとき、ご自宅に数名でお訪ねした時に、ふと今日は誕生日だとおっしゃったので、お祝いをしようと出かけた市谷の料理店では、僕たちがご馳走になってしまったことがある。翌年それではと思ってお祝いの会の相談をしたら、自宅でやってほしいということになって大変になった。
何しろ知る人ぞ知るグルメ、うなぎはこの店のものしか食べないということも解っていてメニューに四苦八苦、でも喜んでくださったこういう機会も得がたい。
林さんはココアにこだわっていてコーヒーはあまりおのみにならないということだったが、それではとコーヒーメーカーを持参して之だという豆をひいて入れてみた。一口お飲みになってうーん!とにこりとされた。さて?こういう機会をいただくのもたまにはいいものだと思ったものだ。

僕の関わったシンポジウムにはよく登場してくださった。
三信ビルの保存のためのシンポでは会場に来た下さったものの、お話いただく機会を作れなかったら、翌日お手紙を下さった。林さんらしい、ちょっと皮肉っぽい口調でこの建築の魅力と位置づけを見事に捉えている得がたいメッセージだった。林さんが「三信ビル」(残念ながら解体されてしまった)にシンパシーをお持ちなのが新鮮な驚きだった。

JIAの[建築家写真倶楽部]の設立は、Kさんと一緒に林さんに声をかけてスタートした。林さんと村井修さんを招いて鼎談を行ったこともある。林さんと親しくなった僕は、村井さんの信頼も得た。

書き出すときりがなくなってしまうが、一編だけ読んでいただきたいエッセイがある。

既に14年も前になったが、JIA設立10周年記念大会で、林昌二さんに`りんぼう先生`こと林望さんを招き、僕の司会によってお話をお聞きしたことがある。其の報告的なエッセイをJIAのブルティン(1998年1月15日号)の冒頭に記載してあるのでここに再収録してもいいのだが、このブログにリンクしている僕の(事務所の)ホームページWORKSⅡのNO.15 [建物には生きる権利がある―プロフェッショナルワークショップ「建築と文化の継承」]―に記載してあるので、是非クリックしていただきたい。
再読してみると、14年たったが林さんに対する想いが変わっていないことに納得した。

もうお会いできないが、一昨年のDOCOMOMOセミナーでお話いただいたときに、対談風になった録音が事務局にあるはずだ。それをもらってあの独特の滋味溢れた口調を味わいたいと思う。
処女作掛川市役所からスタートして、最後の作品、故ある掛川の新庁舎で終わる話である。

<写真、JIA10周年大会での鼎談>