日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

建築家浦辺鎮太郎の宝物 棟方志功の襖絵

2011-12-11 17:58:20 | 建築・風景

-西条市立郷土博物館・愛知民芸館-の前段

本や雑誌と共に、新聞や冊子を切り抜いたスクラップのファイルなどが山になっている自宅の部屋を片付け始めた。書棚にある数冊の「新建築」誌が気になって、そのうちの一冊を取り出す。表紙の写真は、山本理顕の窪田邸らしい。表紙亀倉雄策としか書いてないが、見ればデザインしたのだと解るだろうということか!
この表紙と、収録されている一階が階段状になっている理顕の石井邸には見覚えがある。このようなうち(家)に住めるのかと思ったことを思い出したりした。ぱらぱらとページをめくった後、この住宅特集の目次に見入った。理顕は4件の住宅を、吉村順三が中村外二の施工による鎌倉の茶室、渡辺豊和が京都に建てた伊藤邸の雨の降りそうな薄暗い天候の中のくすんだ写真が乗っている。1978年の8月号である。

理顕さんはこのときから大活躍だったのか!だとか,宮脇檀さんがディテールのページを持っていたことにハッとする。12月9日のDOCOMOMOセミナーで山崎健一さんと中山繁信さんを招いて「宮脇檀」さんを語るからだ。(本文の起稿は12月1日。今日は11日。セミナーは予備席が出る盛況だった)「人間のための住宅のディテール」というタイトルの、`人間のための`というころがいかにも檀さんらしくてグッとくる。檀さんが亡くなって13年経つが、今でも僕たちの中に生きている。

なんてことやっているから、いつまでたっても片付かないのだが、この33年前にもなる一冊はとても興味深い。

「宮城県沖地震」のレポートが記載されている。マグニチュード7,5震度5と記載されていて倒壊した建築の写真もある。この地震を検証して、柱のフープや梁のスタラップのピッチを狭くするなど建築基準法の一部が改正された記憶がぼんやりとだがある。

随想が4篇掲載されている。書いた全ての建築家が亡くなってしまった。33年という時間と、先達がいるからいまの僕がいるのだということを思う。一時代を築いた芦原義信、岩本博行、武基雄、増沢洵、そして浦辺鎮太郎という方々である。
東京オリンピックのポスター制作で世界に瞠目された亀倉さんも、其のポスターの写真を撮ったのが宮脇さんの設計したブルーボックスのオーナー写真家の早崎治さん。お二人とも亡くなってブルーボックスのオーナーも代わった。
理顕さんはますます元気だが、ここに記したたくさんの建築家がいなくなった。

浦辺鎮太郎さん(うらちんさん)の随想のタイトルは「只の家に住んで」というユニークなものだ。つい読み始めてしまった。
「只の家」というのは文字通りタダ、小林先生に阪急の西宮から宝塚線に駅をつくってくれたら周りの土地をタダで差し上げますといわれて中間駅ができた。小林先生は幹部に300坪を分けたが半分に家を建てて値上がりするから半分の土地を売れば家はただでできるよといわれた。だからこの家も「只の家」なのですと書く。小林先生とは小林一三だろう。新建築誌にこんなこと書いていいのかと思うが、もしかしたらそういうことの許される時代だったと言っていいのかもしれない。

その浦辺がこう書く。
「この只の家には、家宝が一つだけある。棟方志功画伯のフスマ絵(6枚)である。かねて旧知の画伯にいよいよ絵筆を取っていただいたのは入居後1年たった昭和26年の夏・・・一瞬のたじろぎも見せず一気呵成に全身をぶっつけるような画伯の仕事ぶりを目前にして、この人は大成すると思った。まだ知る人ぞ知るという存在だった」。

「コレガボクダヨ、コレハニイチャンダヨと子供たちが指で押さえているうちに穴を開けたところもあるが、今はみんな巣立ちして・・」と慈しむように述べ、大正期の郊外住宅からの変遷に触れて小林一三先生現存ならば「只の家」ができる算段を凝らしているのではないだろうか?と思いを寄せて一文を結んでいる。
そして、棟方志功は柳宗悦をはじめとする大勢の人に支えられて世界に認められることになったが、浦辺もまた棟方をサポートしたのだとこの随筆をから読み取れるのだ。

西条栄光教会に関連して、西条市立郷土博物館・愛知民芸館に触れておこうと思ったらこんなことになってしまった。建築に関わる人の物語には汲めども尽きぬ面白さがあると改めて思ったものだ。さてこの新建築誌はやはり取っておかなくてはいけないだろう。
部屋が片付かない!

<写真 西条市郷土資料館・愛知民芸館>